元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

座禅の幻想

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我々がちょっとやそっとの、たとえば「座禅」だのプチ修行を気取って悟りの境地を得ようなんて、はっきりいってちゃんちゃらおかしいわけです。そんなムシのよい話はどこにも存在しないわけで、本気なら安住の地を捨てるぐらいの覚悟はデフォルトなわけで。



なので、悟りというのは我々がもっとも時間を割いている、たとえば「仕事」、これでその境地に近づいてゆくアプローチのほうがよっぽど現実的なのです。なぜなら、とにもかくにも時間を割いているから。

たとえばサラリーマンの座禅なんてせいぜい週に2回、1時間ずつぐらいなもんでしょう。仕事は週に40時間以上は従事していることがほとんどでしょう。この差は圧倒的ではありませんか。



ビジネスマンの仏教へのアプローチは単なる趣味、たとえれば「軽い運動」程度に考えておけばよいのです。そういうふうにあらかじめ考えておくということ。過剰な(ムシがよすぎる)期待をしないこと。

何かを「深める」とかいうよりは「維持」です。精神の平安を得るのに役に立つかもしれない、ぐらいで。



ところでアスリートというのは、レベルが高ければ高いほどサラリーマンなんかよりよっぽど本気だし、修行時代もほどよくあるし(昨今流行りの体罰とかシゴキとか暴力とか)。。ばっちり、悟りまでいくこともあるでしょうね。トップアスリートはそれを「ゾーン」とよんだりしています。



それだからこそトップアスリートは年齢に相応しくない落ち着きをもっているのでしょう。