元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

町田宗鳳さん

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いわゆる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」というのは、我々現代日本人は親鸞さんのお言葉と理解しておりますけれども、本当はお師匠さんの法然さまが最初におっしゃったことなんですよね。

草柳: その言葉をでれでは次に紹介したいと思うんですが、法然はこういうふうな言い方をしているんですね。

一、善人尚ほ以て往生す、況(いわ)んや悪人をや、の事。私に云はく。弥陀本願(みだほんがん)は、自力(じりき)を以て、生死(しょうじ)を離れるべき方便(ほうべん)ある善人の為におこし給(たま)はす。極重悪人(ごくじゅうあくにん)にして他に方便なき輩(ともがら)を哀(あわ)れみておこし給へり。
(「三心料簡(さんじんりょうけん)および御法語(ごほうご)」)

町田: 善人でも往生するぐらいなんだから、当然のことながら悪人も往生するんだと。非常に逆説的な表現をされるわけですけれども、それは何故かというと、阿弥陀様というのは、自分で自分を救う力を持っている人は相手にされないというか、それは問題外で、自分で修行して迷いの世界、生死を離れる道筋を見つけている人ですから、その人たちは別にかまわないと。だけど阿弥陀が現れてきて救いたい、とおっしゃっているのは「極重悪人(ごくじゅうあくにん)」自分はもうとんでもない悪人である。どのようにしても救われないと、絶望の極みにある人にこそ、私は手を差し伸べたいから出て来たんだ、と。そのように阿弥陀が誓った、というのが、浄土経典の教えなんですよ。それに注目されて、こういう「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」というのが出てきたわけですよ。法然さんの時代というのは、観念論ですむ時代ではなくて、戦乱、飢餓、疫病、大火、大変な状況だったわけですね。本当に行き詰まった、そういうところで綺麗事を言っても、建前を語っても誰も救われないわけですよね。ですからこういう極端な、考えてみたら、悪人の方が救われるんですよ、と。悪人の方が先に救われるんですよ、と。まあお茶の世界で言えば、善人よりも悪人の方がお正客ですよ、ということを言い始めるわけですよ。これは本当にビックリ仰天するような話の仕方でしょうね。で、面白いことはイエスも同じようなことを言っておりまして、「マルコによる福音書」を繙きますと、

医者を必要をするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。
(「マルコによる福音書」二章十七節)

こういうことをイエスも言っているわけですよ。この場合「病人」というのが「悪人」ですよね。「正しい人」これが「善人」ですよ。イエスはこの場合、自分の罪に気付いている人、その人を救え取るために私は来たんだ、ということを言っているわけですが、先ほどの弥陀の本願についても同じことが言えるわけです。

草柳: 取りようによってはかなり危険な言い方ではありますよね。

町田: そうです。ですからこれは後世付けられた表現ですけれども、「造悪無礙論(ぞうあくむげろん)」というのがありますが、どれだけ悪いことをしても障りがない、と。本当は罪があっても深い懺悔をすれば救われる。どんだけ深い罪も問われない、というふうに説かれていた念仏の教えが、ちょっと歪んでしまいまして、積極的に悪事を働いても問題はない、と。念仏さえしておれば、盗みをしようが人を殺(あや)めようが、「ナムアミダブツ」と言えば救われるんだ、というふうに曲解されてきたわけです。それがいわゆる造悪無礙論の危険性なんですね。実際そういうことが後になって起き始めるわけですが、法然さん、あるいは親鸞さんは、決してそういうつもりで説いたわけではないんですけどね。

草柳: しかし多分そういうことは、それまでの伝統的な仏教からすれば、それは攻撃の材料に当然なり得るだろうと思うんですが、

町田: そうです。

草柳: 町田さん、この場合今言っている「悪」というのは何ですか。

町田: これは非常に大事なポイントですね。「悪人とは何か」「悪とは何か」、このことについてちょっと考えてみましょう。私は、それは道徳的なレベル、相対的な善悪の悪じゃないと思っているんですね。これは人間存在の根底にある無明(むみょう)というか、煩悩というか、ある意味無明あるが故に、煩悩あるが故に、私たちは人間として存在し得ているわけですけれども、前回ちょっと「唯識(ゆいしき)」のお話をさせて頂いて、人間の意識が八つの段階に分けられている、という話をしました。どうような八つかと言いますと、最初の表層意識は、「前五識」と呼ばれていまして、いわゆる「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」の五つの感覚を、古代インドでは意識をみなして、「前五識」と呼んだわけですが、その次に第六識というものがありまして、それはそういう感覚的なものを統合して判断する意識のことを第六識と呼ぶんですが、次の第七識から「無意識の世界」に入りまして、第七識が「末那識(まなしき)」と呼ばれているんですね。これは我執の原因―「俺が俺が」の原因になっている非常に根の深い執着、それを末那識(まなしき)と呼んだわけで、何度も引き合いに出すユング心理学では、これは「個人無意識」に相当すると思うんですが、その第七識のさらに深いところにあるのが第八識の「阿頼耶識(あらやしき)」ですね。これは「普遍無意識」に相当すると思うんですが、もう個人のレベルよりも遙かに深いところの無意識ですね。この阿頼耶識(あらやしき)こそ人間の迷いの根元である。無明そのものであると、唯識は説いたわけですけれども、法然さんや親鸞さんがおっしゃる「悪人」、あるいは先ほどのイエスの言葉に出てくる「病人」とか「罪人」とか、そういう言葉は、まさに阿頼耶識(あらやしき)―第八識を抱え込んでどうしようもない人間を言っていると思うんですね。ですから単に何か悪事を働いた、そういう人を悪人と呼んでいるんじゃなしに、我々すべての人間が、無意識がない筈はないわけですから、普遍無意識―阿頼耶識(あらやしき)を抱え込んで大いに迷っているわけですから、この私たち一人ひとりのことを「悪」と呼び、「悪人」と呼んでいる。それを自覚できるかどうか。それ一つでその人の信仰のあり方が決定付けられてくるわけですね。

草柳: 「自覚できるかどうか」と言われても、まさに無意識の世界ですから、当然それを意識するということはあり得ないわけですよね。

町田: そうですね。そこはうまくしたもので、我々は自分たちの内面にある無明に気付くほど賢くないわけですよね。ところがヴァスバンドウ(世親(せしん))(四世紀頃の西北インドの僧)という人が阿頼耶識(あらやしき)のことを、
恒(つね)に転ずること瀑流(ぼる)の如し
(『唯識三十頌』)
と。「瀑流(ぼる)」というのは瀑流(ぼうりゅう)ですね。鉄砲水みたいなもんですよ、山から落ちてくる。無意識というのはそれほどの力を持っているわけですね。だから私たちは、社会的に品行方正でありたいとか、親切でありたいとか、いい人でありたいと思っているんだけども、そういう思いに反してしばしば非常に愚かな過ちを犯してしまう。場合によっては、法を犯すようなとんでもない犯罪も犯してしまうわけですよ。それは何がそういうふうに我々をおいやっているのか、といったら、まさに私たちが抱え込んだ阿頼耶識(あらやしき)であり、普遍無意識なんですね。無意識の力の前ではもうほとんどお手上げ状態ですね。意識というのは本当に薄っぺらい力の弱いものですからね。私たちの思いに反して、私たちはいろんな過ちを犯す失敗をしてしまう。そこで挫折をするわけですよ。大きな恥をかくかも知れないし、大きな悲しみを体験してしまうかも知れない。そこでやっと気が付くわけですよ。だから単に瞑想をして、自分の中の無明に気付くわけではなしに、大抵の場合は現実の生活の中で、自分の判断を間違ったが故に大きな借金を抱えてしまうかも知れないし、今まで信頼していた人間関係が壊れるかも知れないし、場合によっては病気になるかも知れない。事故に遭うかも知れない。そういう外的な出来事ですね。実際の生活面でいろんな試練が押し寄せてきます。で、それは挫折ということになるわけですが、場合によっては非常に深い絶望に陥るほどの挫折体験ですよね。そこでやっと愚かな凡夫の私たちも自分の中の醜さとか弱さとか汚さとか、そういうものに気付かされるわけですね。