元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

昔話の深層

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われわれ心理療法家のもとに訪ねてくる多くの人は、(略)その人がそれまで信条としてきたことがくずされ、どのように生きてよいかわからなくなる。そこで、われわれ治療者に相談して、何かよい生き方を教えてもらおうと来談する。これに対して、われわれのできることは、「無為」である。そして、これこそが最上の方法なのである。

自分で解決を見出せず、治療者もたよりにならぬと知り、まったく行づまってしまったこの人は、退行現象を体験しはじめる。今まで、無意識のほうから意識のほうに流れていた心的エネルギーが、逆に意識から無意識へと流れはじめるのである。

これは今まで意識に依存してきた規範にたよれなくなったので、それに対立するものが無意識内に形成され、この対立のために心的エネルギーの流れが乱されて、むしろ逆流を生じたのである。このとき、この個人はまさに「怠け」の状態になる。あるいは行動するとしてもきわめて馬鹿げたことか、幼稚なことをするにすぎないだろう。

心理療法家としては、このような退行現象に耐えていると、その頂点に達したと思われる頃、エネルギーの流れの反転が生じ、それは無意識内の心的内容を意識内へともたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見るのである。

(略)ユングは、(略)退行には病的なものと創造的なものがあることを主張した。

(引用終了)

「治療者もたよりにならぬと知り」「今まで意識に依存してきた規範にたよれなくなったので」という、ある種強烈な「諦観」の経験が、きわめて大事であると思うのです。