元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

[長文]「思想」をしない時代(三)インテリと思想』

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 我々の曾祖父、曾祖母の世代は、コドモたちに、「せめて教育を」と切に願い、その願いはほぼ実現されてきました。
 
 先達はなぜ、次の世代に「教育」が必要と考えたのか?
 
 そしてなぜ、失礼を承知でいえば、学のない先達は苦労したのか? あるいは、自分たちは苦労した、と考えざるを得ないのか?
 
 今、学ぶことをないがしろにしている若い世代のヒトたちは、このことについて考えなければならないと思うのですが、若い世代は思想どころか「思考」すら放棄しつつある状況です。

 
 ここからは仮説ですが、先達は、教育を受けることにより、いいところに就職できるから、とか、玉の輿に乗れるから、とか、そういう理由で「教育を!」と叫んでいたのではありません。
 
 また、コドモにまともな教育を受けさせて、給料の良いところで働いてもらって、自分たちが老後楽になるように、という自分本位の考え方でもない。
 
 もし、そういった現実的な打算があったのだとしても、それは後付の動機にすぎません。

 彼らは、教育により、「上の階級を目指せ」と言いたかったのです。
 
 それは、いい会社に入るとかそういう直接的なものとは、少し違います。

 今は幻想となってしまいましたが、ムカシは、教育を受ければほぼ教養が身につきました。
 その理由は、かつては教養を身にまとう素養のあるヒトだけが高等教育をうけていたからです。

 ですから、ムカシの世代の方々の考え方は今でも、教育を受けるイコール、「教養を身につける」です。
 
 現代においては、教育を受けたところで「知識」が頭に入ってくるだけで、それを咀嚼して「教養」にまで昇華させることは、学生の自力ではなかなかできなくなってきています。
 
 それは昨今、「教養がある」と感じさせる学生、若い世代が激減していることからも明らかです。(なぜそうなってしまったのか、はいろいろなところで考察されていますので、そちらに譲ることとします)

 
 そして、教養や「たしなみ」を身につけることにより、「上」を目指せる、と信じられていたのです。
 
 それは、うがった見方をすれば、戦後の制度改革につけこむということになります。

 日本はほぼ、階級制度はなくなりましたので、一億総中流の中で暗黙の上下階級ができあがっています。


 こういった状況では下克上はアリです。
 
 下克上は、ある程度はおカネに物を言わせてイケないこともないですが、決め手となるのはやはり教養と「たしなみ」なのです。

 それは「成り上がり」とは違う。「成り上がり」はおカネがほぼすべてであり、教養とたしなみは意識的に無視する傾向にあります。


 必要なのは、”noblesse”です。 
 先達は”noblesse”を、明らかに意識していました。
 
 それは「インテリ」とも違います。インテリというのは教養とたしなみが身についていないこともあります。(が、もちろん庶民と比べれば、身についている可能性は高い)

 先達は、次の世代に、「教育」を半強制的に受けさすことにより、カネ勘定ばかりの「商人」になってほしかったわけでもなく、融通の効かない「インテリ」になってほしかったわけでもなく、教養とたしなみを身に着けた戦後平等主義社会における「擬似上流階級」にのし上がってほしかったのです。
 
 その「擬似上流階級」にさえなってくれれば、結果として職業が商人になったりインテリになったりしたところで、それはなんでも構わないのです。
 
 もっと直接的、極端にいえば、戦前の華族の流れを汲み、戦後も「最上流」に位置づけられるヒトたちとなんとかしてお近づきになりなさい、ということ。

 戦後であれば幸いなことに、市井の教育の上のレベルで彼らと同じだけの教養とたしなみを身につけることができたのです。

 「庶民」を飛び越えるための最も有効な手段が「教養を身にまとう」ことでした。
 
 でも今となっては、幼稚園~高校まですべて公立だと、教養が自然に身につく、というのはほぼ絶望的といってよいでしょう。

 本人と親がムリして努力すれば別です。「自然に」が難しいということ。
 
 なぜなら、公立学校では親が、コドモに「教養とたしなみ」を身につけさせようなどとはこれっぽっちも考えていないでしょうから。そして学校側も…
 
 極端に受験一辺倒に走るかあるいは、不自然なほどの「自由」を強調してコドモの傍若無人にまかせてしまうか。
 
 これは東京だけのハナシかもしれませんが、こういった理由で私立志向というのは止まりません。私立はムカシも今も、たとえ幻想であっても、「教養とたしなみ」「上流」を明確に意識していました。そしてその方針に魅かれる親(そして子)が集まった。

 今は違いますが、当時は「カネ」は二の次だったはずなのです。カネがなくとも「教養」に支えられた「高潔」でさえあってくれれば親は子の成長をココロから喜んだのです。


 親は、教養を身につけるという大前提で、「まっとうな就職」をのぞみ、たとえば、非インテリの職人層のコドモが、役所、教員、あるいは新聞社とか、名の通った企業のホワイトカラーに就職が決まると親はたいそう喜んで、近所中、親戚中に自慢してまわったものです。(娘が、そういう人種のところに嫁にいくのも同じ)
 
 かつては、親の仕事を子が継ぐことは、それほど喜ばれなかったのです。明らかに。それは、対外的には「教養が身につかなかった」ということになるからです。(今の時代は、そんなことはありません)
 
 かつては、そういう教員であるとか役所であるとか新聞社であるとか、そういうところに就職するということは、非常にわかりやすいかたちで、「上流の一員になる」ということだったのです。
 
 かつて親たちは、そういう「上流の一員」にバラ色の人生を夢想し、職人的人生にバラ色の人生を見出せなかった。だからコドモたちには、まず教養を身につけさせて、「上流の一員」になることを望んだ。
 
 なぜ「上流の一員」がバラ色なのか。それは、当時「上流」にみえたヒトたちの家や車が大きかったり、カネ持ちそうな買い物をしたり、そういう振る舞いや生活をみて「バラ色」に感じたのではないのです。
 
 おそらく「上流」にみえたヒトたちのうちでそのような成金的生活をしていたヒトは少なかったのではないでしょうか。
 
 なぜか。ここでやっとキーワードになるのが「思想」なのです。

 彼らは、「上流」のヒトたちが、ごく自然に教養とたしなみを身につけているのが羨ましかった。「スマート」にみえたわけですね。
 
 なぜうらやましかったかといえば、彼らは、そういったヒトたちに自分たちにはない「何か」、つまり、表面的でなく内面的にも人生を充実させることができる手法―「上流」にだけ相伝されてゆくであろうもの―を、敏感に感じていたからです。
 
 「上流」のヒトたちは、この人生を読み解く「何か」を知っている。あるいは、それにとても近いところにいる。それは、人生の充足度を加速度的に飛躍させるエンジンのようなもの。
 
 その「何か」は庶民階級にいてはわからない。「上流」はコトバのとおり上にあるのではなく、同じ地平の「向こう岸」にある。だから、自分のコドモたちをそこに送り込んでその「何か」を知りたいと願ったのです。そしてそれを「おすそわけ」してほしい、と。
 
 そしてそれは、「カネ」ではなかったのです。
 
 上流に対する根源的羨望は、はるかムカシから日本の「庶民」の潜在意識に根付いているものであり、そしてこの「何か」を探るのが思想です。

 ふたたび司馬遼太郎の説を援用すれば、庶民はそもそも思想しない、とのこと。地に足をつけた生活をし、「思想したって食えないじゃん」と言える存在、と規定しているようです。
 
 ですが、果たしてそうでしょうか?
 
 一億総中流となり、中流(イコール「庶民」)がかつてないほどまでに肥大化した「知識」(「教養」ではない)を持った現在には適用できない考え方ではないでしょうか。
 
 まず、「地に足をつけた生活」をしている人間が、いない。私の考える「地に足をつけた」は、市井の生活で疑いを持っていない、ということです。
 
 「知識」が疑いをつくりあげる。自分は「市井」でいいのか? と。自分は「庶民」を超えた存在なのではないか?という「買いかぶり」を始めるのです。
 
 ところが、「知識」が「教養」に昇華すると、そういった肥大化した自意識は引っこみます。


 そもそも知識がなければ、地に足のついた生活ができる。それがかつての庶民の定義でした。つまり、かつての庶民は「知識」をもたない存在である、と言われていました。
 
 そして、かつては「知識」はほぼイコールで「教養」に昇華していったのですが、今は、「知識」どまりのヒトがゼッタイ多数です。
 
 現代社会は、高等教育とマスコミ(が垂れ流す情報)により、知識はデフォルトとしてついてくる。ですが知識が「情報」としてとめどなく流入してくるおかげで、それを「教養」に昇華できない。
 
 今の現代社会で、知識を教養に昇華させるためには、「思想」の素養が必要です。そして、思想「する」というやや苦しい行為が必要になってきます。

 それは「自分で咀嚼し、モノにする」ということ。

 「思想」せずとも疑いなく生きてゆける層、というのは功罪あります。以前私がよく使っていたコトバで、「身の程を知る」ということです。でも今は誰もが「身の程」を知りたくないという思いがあるのでしょう。
 
 この「思想」に対しては、結果的に、大量の情報の洪水を流しているマスコミ(マスコミは、「お上」と結託している)が、庶民が思想することに対してNoを突きつけています。「バカのままでいよ」と。


 現代社会においては、マスコミ(たとえば、クイズ形式の教養娯楽番組など)から得る知識だけでは「バカのまま」です。これは、少しだけ矛盾しています。「教養番組」を必死に見たところで教養は身につかない。それどころか、受動的に見ているだけでは「知識」すらも素通りしてゆきます。
 
 知識が教養に昇華せず残存するとどうなるか。
 どんどん発酵し(つまり、腐る)、結果として自意識が肥大化してゆく。

 自意識が肥大化してゆくと、自分は庶民ではないと思い始めます。
 今の日本人がとどまってしまっているのは、この状態です。
 
 まず、知識があるイコール教養がある、と自己評価しているということ。ここが悲劇の発端。
 
 知識がある、だけでは全く「選民」ではないのですが…(今の時代は誰でも知識「ぐらいは」もっています)


 情報の洪水には、今の世界に生きるヒトたちの「選民意識」にスイッチを入れる「麻薬」がところどころ忍ばせてあります。

 選民意識にかられている状態は、ぬるま湯の地獄でしょうね。
 そして、この状態で、「思想するとその状態から抜けられますよ」とアドバイスを受けたところで聞く耳もたない。
 
 選民意識にかられながら、流行から逃れることすらできない。つまり、ココロの中では「選民」のはずなのに、やることは横並び。突き抜けることができない。突き抜ける術すら知らない。


 結論としては、自身に対して「このままでいいのか、よくないのか」の最終決断を迫るべきでしょうね。それは相当な苦痛を伴う行為ですが…
 
 この行為こそが「思想する」なのでしょう。
 
 僕は、世の中に対してもともとは相当楽観的でいたのですが…

 つまり、知識を持てば、それを教養に変換したいと衝動が必ず起こるはず、と。そしてヒトは、教養に変換する手段を模索する中で必ず「思想」にいきつくはずだ、と。

 思想の先には宗教(「新興シューキョウ」ではないということは強く言っておきます)が見えてきます。
 
 でも最近は、自意識が肥大すると、知識を教養に変換したくなるという衝動は消滅するのだなあ、と、周りを見ていて再認識する次第です。
 
 自意識が肥大化したヒトほど、ヒトの話を聞かないクセに他人に思想的援助を求めます。

 それはつまり、「答えを先に知りたがる」ということです。答えに至るまでの思想的苦しみを自分だけは省略してもよい「選民」であると考えてしまっているのです。

 それはだいぶ、図々しい考え方ではないでしょうか。

 そしてそういうヒトばかりが増えてきています。