元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

欲望に埋没するヒトたち

 

stevengerrard.hatenablog.com

最近、欲望に埋没したいヒトがほとんどである、という事実は。。

つまりは、横並びでよい、と。流行であれば「ちょっと先」を「自認」さえできればそれでいい。

ですが、その「ちょっと先」というのはすでに完全に没個性になっています。

欲望に埋没するのも、流行のモノに飛びつくのも、すべて没個性。でも、それでいいほとんどのヒトは考えている。

(そして私は、意識的に埋没するのはゼッタイにイヤです)

はたして、なぜ日本人はそうなっていくのか?

というのは、最近やっとわかってきたのです。

それは、結局は、世の中が豊かになったからですよね。

ありきたりな結論ですが。。ここにたどりつくまでに時間がかかっています。

なぜなら、世の中が豊かになれば、選択肢が広がるわけですから、ヒトは横並び許容精神を捨ててゆくに違いないい、とつい最近まで考えていたのです。「選択の自由」があるのですから。その権利を最大限行使するのが「進化した」豊かな時代の人間像である、と。

でも、それは全く違うようです。(【重要】マーク)

今の時代、相当豊かになった証左として、「ふつう」で相当物質的に豊かな生活を送ることができます。

ムカシは、「ふつう」は「やや貧乏」だったのですよ。自分と同じぐらいの世代のヒトは、かすかに記憶に残っているはずですが。。

でも今は、違います。「ふつう」は豊かであり、それは、高度成長期にすべての日本人が望んだことです。

そして今、「ふつう」でいること、すなわち埋没していることは、ものすごい「ラク」なのですね。ラクだから埋没する、つまり「ふつう」のままでとどまる。

でもそれでは、自分が何度も書いている、「通奏低音としての不満足感」から逃れることはできないのです。永遠に払拭することはできないのです。

なぜならば、この現代社会で「ふつう」に埋没することはつまりは「欲望に埋没する」こととイコールであり、基本的に欲望を突破することは、資本主義社会では是とされないからです。

「欲望」が「不満足感」のガソリンなのですから。