元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

メカに強いということ(iPhoneから遠くはなれて)

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メカに強いタイプっているよね。
ムカシでいえば、ビデオの録画予約のやりかたがすぐわかる、とか。
今の時代でいえば、パソコン操作に詳しい、ケータイに詳しいとか。

アーキテクチャ」に詳しいというよりはインタフェースにすぐ親和する、というか。。
どのメーカのどの製品であっても、ユーザインタフェースにある程度の相似性はあるから、それを敏感に察知して、どんな製品であってもタッチパネルとかボタンとかの操作をやれてしまうタイプの人間。

そういうヒトはおおよそ、「メカ」の内部にも「入ってゆこうとする」というか、アーキテクチャのほうへ向かおうとはする。
でも、インタフェースに親和性があってもアーキテクチャまで極められるとは限らない。

  
さて、そういうタイプのヒトは、とかくメカ音痴なことが多い(あるいは、メカ音痴を装っている)女子にすごく重宝される。

その「重宝される」という状況は、モテているわけではないのだ。
悲しいことにそれは、現代版「アッシー」なのだ。
「アッシー」って死語かな。。

(ところで僕はメカに詳しい女子は好きだなあ。。頼りがいがあって)

 
僕が思うに、そういうヒトたちこそがこのギョーカイに棲息する人種の典型である。

まァそういうヒトたちだけじゃないんだけど。。「そういうヒトたちこそがこのギョーカイに棲息する人種の典型である」と、外部から思われていることは確かだ。

 
そしてそういう存在に僕は根本的な違和感を感じ始めてきている。残念ながら。

別にキライってわけじゃないよ。キライなのは個々のヒトたちじゃなくてこのギョーカイ全体の体質だから。

 
なぜ、違和感を感じるか?

それは、そういうメカに詳しいヒトたちというのは、「便利屋」にすぎないからだ。

ということは、そういうヒトたちがこのギョーカイ(の最底辺層)の典型なのだとすれば、僕らインフラ系エンジニアの存在自体が「便利屋」ということになる。
ちょっと論理が飛躍している感はあるけれど、そう確信するようになってきている。

僕は、世の中とか、客から「便利屋」とは思われたくないねえ。

  
「メカに詳しい」というのが立派なスキルだというのは、僕個人は認めている。なぜなら、僕はそういう存在になれなかったからだ。

だが、このスキルはどうあがいても、ビジネス・シーン全般における評価にはつながってゆかないのだな、という諦観がある。
(だいぶ前から。。)

  
ところで、たとえば大工さんは「木」のオタクかもしれない。木材を診て木と会話して、家を建てるためのよりよい木材を選択できるのかもしれない。

これも立派なスキルだし、メカと同様にオタク的ですら、ある。

だが、メカと同様じゃないのは、こういう「肉体的スキル」(とでもいったらいいのか。。)に対して、世の中のヒトたちは尊敬を抱くことが多いということ。

なぜならば、メカではなく、「畏怖すべき対象」である自然と会話できるからなのだ。
メカというのは畏怖すべき対象ではないということだ。人間が作り出したもので人間がコントロール可能(なはず)と思われているから。

自然との対話っていうのは「根源的」なんだよね。メカとの対話は、「表層的」というかね。。
(そう、世間から思われているのであろう、ということであって、僕がホントにそう思っているというわけではない)

そして、大工の世界はようわからんけど、そこまでキワめてないのに大工を気取ってるヤツもたくさんいるのだろう。そういう意味ではどのギョーカイも似たようなものなのだと思われる。