元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

コミュニケーション論

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コミュニケーションロスがどうのこうの、という議論がされてから久しく、やたらとHowTo本が幅を利かせていたりしています。

とくにこのギョーカイは。。ギョーカイ「先住民」が、コンピュータとだけ対話していれば幸せで、ビジネスにおける外部とのコミュニケーションを拒絶してきたような人種だったために、僕らも脈々とその遺伝子を受け継いでいる。

かつてはそれでもよかった。なぜなら、「コンピュータと対話できる」というスキルを、「カネを動かすヒトたち」が買ってくれて、ビジネス上のめんどくさいことはよろしくやってくれていたからだ。

でも今は、そんな「古きよき時代」ではない。ないのだけれど、僕らまがりなりにも「エンジニア」と呼ばれる人種は、その古きよき時代にいまだに思いを馳せる。。
古きよき時代への思いを捨てきれないまま、ロクに対人コミュニケーションもとれない人種が大量にビジネス・シーンに登場してきた。
(って、もともとビジネス・シーンにはいたはずなんだけど。。)

そこにさらに、追い討ちをかけるように、「ゆとり」と呼ばれている世代が大学を卒業してきて、同じくビジネス・シーンに大量流入。。

この状況ではたしかに、ものすごい化学変化が起きそうですな。

 
 
さて、
今世間でいわれている「コミュニケーション」というコトバは、主に対人のコミュニケーションを指しているに違いない。
という前提で、僕なりの「ソリューション」を述べさせていただくと、基本的には「笑顔」と、「ヒトのハナシを聞く姿勢」だけあれば、それでいいのだ。

なので、笑顔のまま毒を吐いても、ヒトのハナシを徹底的に聞いた後に大反撃しても、それでよいのだ。

 
。。と、ここまで読んでいただいて、たとえば「オレは仕事では笑顔を見せない主義だから」とか、「ヒトの話はなるべく聞かないで自分の主張を通すのが交渉 術だ」みたいな(正論にすぎないとか、甘っちょろいとか、ね)、表層的なポリシーをお持ちの方は、ちょっと。。今すぐ、対人との接触がない仕事を別途探し たほうがよろしいかと。(そういう仕事があるのかどうか知りませんが)

少なくともシステムズ・エンジニアリングの仕事は、どのレイヤであっても、コミュニケーションは必要だし、これからもっと必要になる。
コミュニケーションが、ひとつのスキルとして、システムに対する従来の「スキル」以上に重要になってくる。

システム屋が「あんまりヒトとハナシしなくていいから」という理由で、仕事として選ばれる時代は終わったということだ。

そして個人的にも、そういう理由でこのギョーカイに入ってきてほしくないんだよね。。
なぜなら、困るから。僕だけじゃなくて、みんなが。

 
 
さてさて、
笑顔もなくヒトのハナシも聞かない人間は、どうなるか?
といえば、メールがばんばんくる。
そりゃそうだ。アイツとは対面でハナしたくない、と思うから、自然、コミュニケーションツールはメールになる。

で、実は、「笑顔もなくヒトのハナシも聞かない人間」も、メールでのコミュニケーションをおおいに望んでいるわけだから、「相思相愛」でまったく問題ないはずだったのだが。。

どうやら、そうでもない。
メールベースだと必ず認識がズレていって、最後にはハナシをせざるを得なくなる。(「決着」)
で、そのときにはもう遅いんだよ。コミュニケーションは、コワれちゃってるから。認識のズレが発生する頃には双方、ムカついてんだよね。

なぜ認識がズレるか? は、前にも書いたような気がするけど、アタリマエなんだよね。双方が、とある議論すべき事項に対して、自分がもっとも都合のいいように考えるから。。
到達すべき結論というのは、互いの主張のど真ん中にあって、誰もそこへ進もうとしない。

いわば、メールにおけるジャイアニズムの権化になってゆくわけだ。

いや、ちょっと違うな。。 第三者が手招きしなければ、誰も自らそこ(結論)へ進もうとしないということが問題なのだ。当事者間で解決しようとする「責任感」みたいなものが欠如しているのだろうなぁ。

で、「笑顔もなくヒトのハナシも聞かない人間」は特に、そういう「責任感」があるはずもないだろう。。と、個人的には思っている。

 
コミュニケーションがコワれた状態で対面でハナシしても、建設的な議論にはならない。互いに頑なに自分の主張を譲らないし。

結局第三者(上司とか)が仲介するハメになる。つまり、誰かが尻拭いをしなくちゃならないわけね。ということはつまり、そもそも誰かが尻拭いしてくれるだろうという前提で「甘えの」バトルを繰り広げているわけだ。
メールにおけるcc:の功罪のうちの「罪」はこういうところにあるんだよなあ。。 バトルを繰り広げている当事者は、ccで誰かが見ているからこそ、それに甘えて、いつかは誰かが助け舟を出してくれるだろう、と考える。

 
 
逆に、笑顔で、ヒトのハナシを聞く人間の周りには、ヒトが集まるのは当然でしょう。

メールする前にまず、ヒトが寄ってくる。だから、最初対面で話しておおよその認識(および「空気」)は形成されるから、その後のコミュニケーション手段がメールであろうがなんだろうが、スムーズだ。しょっぱなからメールで始まるよりも。
こちらが、笑顔と、ハナシを聞く姿勢でのぞめば、最初からケンカ腰になることはない。

 
「笑顔」と「ヒトのハナシを聞く」というのは手段であって、要は、人間が周辺に集まってくる努力をしましょうよ、ということ。
メールによるネットワークで形成されるステイクホルダとの距離は、遠い。物理的にではなく精神的に。。

 
 
笑顔でヒトのハナシを聞ける状態というのは、「余裕」があるということ、それに尽きる。
最初から、人間として余裕を持つことなんてできないから、まずは余裕があるふりをして、笑顔をつくり、ヒトのハナシを聞く姿勢をもってみましょうよ、ということ。

余裕がある人間のマネごとをしていればいつかはホントに余裕のある人間になることができるという。。 この事実を信じるか否か、ですね。ポイントは。