元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

どのように生きるか、のまとめ(マジメ)

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結局、書けばカンタンなことなんだよ。

・やがて死ぬのだ、ということを自覚すること。
・何か超越的な存在に自分が「生かされている」のだということを知ること。

その「超越的な存在」が何なのか、神なのか仏なのかジーザスなのか、そのネーミングというのはそれほど大事ではない。なぜなら、それは自分がどこで生まれ、育ち、生活し、どのような他人と交わったかという社会的環境でどうとでも変化してしまうものだからだ。
東北のイタコが、前世の霊を憑依させて語るときに東北なまりの日本語しかしゃべれないのと同じだ。

でも、その超越的存在がなんなのか? を突き詰めたかったら突き詰めればいい。
なんでもカテゴライズしなければ気がすまない、というヒトは多いから。

突き詰めるほどに、最初はキリスト教だの仏教だの神道だの新興宗教だの、細分化されていたものが「そういうくくりをしていてはいけないんだろうなあ」ということに気付いてくる。


このふたつを押えることができたら、次は
・利他的であること

ここを突き詰めてゆけばよい。とことん。

でも、多くの日本人は、最初のふたつについて考えるときに、主に周囲からジャマされて(「アヤしい宗教に入ったんじゃなかろうか?」と)それ以上進むことはできない。そこからは若干、強い意志が必要だ。


でもね、「生と死」について考えるのはとても自然なことで、考える手助けのために若干宗教「学」の支援をうけたって、いいじゃない。

でもそこで、網をもって待ち構えている新興宗教の勧誘のヤツらに、まんまとしてやられないことだ。ヤツらには理屈では叶わない。「ああいえば上祐」と同じで。。

「生と死」に考えるのは独りでもできる。別におおっぴらにしなくてもいいことだ。