元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「終わりなき日常」の話 ふたたび


龍澤ヒデアキのバックドア 「終わりなき日常」の話 ふたたび

この「終わりなき日常」にホンキで耐えられないヒトたちははっきりいって死ぬしかないでしょう。そのぐらいの極論はもっています。

マァですが皆さん「退屈かもしれない」ぐらいには思ってるかもしれませんが、ホンキで耐えられないヒトはいないでしょう。死ぬか? 終わりなき日常を生きるか? なんていう究極の選択を考えるところまで追い込まれるヒトは。

自分の人生を楽しい、充実した方向に設計するのは自分の人生でいちばん難しい作業です。そんなことはごく当然のことです。それを放棄しているヒトが多すぎるのではないか、ということです。日々の「日常」に流されていることを言い訳にして。

それと、他力本願。何かものすごい幸福が、「あちらから」やってくるものだと漠然と信じ込んで。。

「今の自分はホントウの自分じゃない」と思い込み。。

なぜそのような考え方がまかり通るのか、すら理解不能なのでそのような方々とは永遠に話が合うことはないのでしょうが、まず言いたいのは、人生を「設計」してみましょうよ、ということです。

設計というのは困難ですが知的で面白い作業です。ましては自分の人生そのものなのですから、困難はあるでしょうが面白いにきまっています。

何 が自分にとって充実して楽しいものかホンキで考えることです。それはヒトによって違ってくるのが当然。そしてその人の器によって、享受できる充実感と楽し さも酷いほど格差がでてくるのです。それは、認めなければなりません。私含めた大多数の人間は、「たかが庶民」なのですから。

自分の器を冷静に見極めなければならないのです。

退屈だとか、何か面白いことないのか、とか言うヒマがあるんだったら「設計」しろ、ということです。とりあえず相当な退屈しのぎにはなります。

「設計」という概念にピンとこない、「設計」といわれてもどうしてよいものかわからない、というならば。。 それはそれで問題ですが。。

設計の手段をわからないのであれば設計のしようがないのでしょうし。確かに、学校では教わらないでしょう。

カンタンにいってしまえば、ゴールを設定してそのゴールに到達するためにいつ、誰が、何を、どのようにすればよいのかをすべて書き出して「設計書」にまとめるということです。その「設計書」は別に形式ばってなくてもいいのです。

ひ とついえることは、書かないとゼッタイに設計はできません。(「書く」というのは比喩ですから、キーボードで打つでもよいのですが)書いて視覚化しない と、自分の人生を「きたままを受け入れる」という受動的な姿勢から、「取りにゆく」という能動的な姿勢へ転換できないのです。

銀行とか証券会社などでうたっている「人生設計」とはまた違うモノですからね。。 あれは、あちらが儲けられるように我々を洗脳してゆく「商品」にすぎません。我々の人生の「設計」は必ずしも銀行とか証券会社に恩恵をもたらすものではないかもしれません。

現代人に真の「気づき」が発生したら、それは資本主義社会には相容れないものになってゆくでしょうね。資本主義社会が生み出すムーブメントはすべて、お役所や企業に都合のよいものであって、我々を従順に飼い慣らそうとするものばかりです。

私が求めているモノを漠然と申し上げれば「お役所や企業に都合の悪い善行」ということになるかもしれません。