元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ヤンキー文化についての考察


[再録]ヤンキー文化についての考察|(改題)ひとり公論

僕は田舎のヤンキー文化は大キライでしたし今でもキライですが、今オトナになり、落ち着いて考えてみると、共感できるところが少しはあります。
そのうちのひとつは、より大きなモノ、体制に歯向かおうとする気概のようなものです。

筋金いりのヤンキーになってくればもう、いわゆる「先公」(ふるい?)、学校に反抗するという枠を超えて、対峙する対象は地域の警察だったり、暴力団あるいはそれ関係のチンピラだったりします。
それ以前に、学校間、あるいは同世代地域グループ間の「抗争」を経たりしますが、「筋金いり」であればその時点でグループの歯車に組み込まれたりはしません。

どこまでも度胸試しで背伸びしてゆくところ、その破天荒なパワーは、スナオにスゴいと思いますね。

ところが、僕が現在、ヤンキー文化を全面的に信用ならないと考えるようになってしまった理由は、そういう旧態依然とした文化が絶滅しかけているからです。

その理由は、「卒業」という美学が、ヤンキー(不良)からごそっと抜け落ちてしまったからです。
僕が考える(考えていた)ヤンキー文化のよさのもうひとつはまさにそれであり、ムカシのヤンキーの足の洗い方はおおよそすがすがしいものでした。(カタギに戻るにせよ「本業」に進むにせよ)

かつては、いくつになっても「そこ」にしがみつくことのカッコ悪さ、というものがあり、散り際の美学というものが厳然と存在していました。「テメーまだハンパやってんのかよ」みたいな。
具体的には、19歳ぐらいがリミットでしたでしょうか。

背伸びして体制に「反抗」することは「ハンパ」であり、そこから卒業して体制そのものに飛び込んでゆく(あるいは、ホンモノの裏社会に飛び込んでゆく)気概があったのです。
(もちろん、どの時代にも例外はあります)

それが崩れたのはちょうど、いわゆる「茶髪」が民営化されて一般人にまで降りてきた時期と重なっています。

最近の「彼ら」は、(偽)ヤンキー文化というハンパなぬるま湯にいつまでも浸かっていようとしています。なぜなら「そこ」であればある程度の万能感があるからです。

社会に出れば、その万能感は一切失われてしまい、ただの(社会に出るための勉強もろくすっぽしていない)一般人に成り下がってしまいます。
ヤンキー文化の中でホンモノの、僕ら庶民では経験できないような修羅場をくぐり抜けているのであれば、一旦一般人に成り下がってもそこから這い上がるのは容易なような気がしますが、それを現代のヤンキーに望むべくもありません。
なぜなら、単に「楽だから」出ようとしない、そういう人種の集まりだからです。


ヤンキーは、かすかに「一般人とは一味違う」という点において認めていた部分もあったのですが、昨今はそれも崩れて、ただのヒトに迷惑をかける(おそれのある)一般人に成り下がってしまいました。(あるいは「ふつう」に「成り上がった」?)