元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

権威になるかならないか[ネット論]


ひとり公論 権威になるかならないか[ネット論]

権威でなくともかまわないのですが、「有名か否か」でもいいのですが、ネット上で何かしらのオピニオンを表明すると、バーチャルな世界を「警邏中」の相対主義者につかまるわけです。

「オマエナニサマダ」と。

彼らの取り締まりは、ボランティアのわりにはやけに積極的です。こちらは最小単位のヒトに向かって語っているつもりでも、「ここはネットだぞ? オマエのコエは筒抜けなんだ、ちょっと静かにしろ」と、容赦ない。

でも、ネットの世界の「コエ」は、本来、聞こえてこないのです。こちらから取りにいかなければ。だから、放置してもよいはずなのです。

サイレントだから、たとえば職場においてはメール文化が発展するわけでして。。

ネット上でオピニオンを表明するというのは、リアル社会で、スーパーの伝言板に「ビラを貼っている」ようなイメージでしょうかね。そこには、小さな文字でいろいろ書いてある。通りすがるぐらいでは、目に飛び込んでこない。

確かにおっしゃるとおりで、貼ることにより全人類が目にする可能性はあります。そこにくれば、のハナシですが。

でもこちらはコエを出して叫んでいるわけではない。特定のヒトに対してそのビラを貼った場所を教えているだけです。「見たければどうぞきてください」と。

それと、そこに貼ることにより、自分が意識していない不特定多数の「誰か」に声を届けたい、という欲望があることも、否定はしません。否定はしませんし「それが何か?」ということです。



ですが、そのビラをやたら片っ端からチェックして、そこに書いてある連絡先にわざわざ連絡してきて「ジャマだからはがしておけ」と言ってまわるヒマ人がいるわけです。

さらに、「オレ(ワタシ)はこれを読んで不快だった。どこが不快だったかといえば。。」とわざわざ書いてある。ちゃんと読んでいるところがますますヒマ人というか。。

。。 このたとえハナシはよくなかったかもしれません。ネット上で意見を表明する、というのは、「ビラを貼る」ではなくて、何らかの「再生機」のようなものを伝 言板に付けておく、といったようなイメージかもしれません。その「再生機」のとなりには、そのヒトのプロフィールが書かれており。。再生ボタンを押すと、 「コエ」が出る。そのコエはささやくようなものかもしれないし、怒鳴っているかもしれません。それは、押してみないとわからないのかもしれない。再生と停 止ボタンしかなく、ボリューム調整はできない。