元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ふたたび教育論のハナシ

ふたたび教育論のハナシ
アンタできないねえ。。とレッテルを貼ってしまうのは、実は親なのです。
コドモが、ある教科に対して苦手意識をもってしまうのは、ほとんどの場合親のせいです。そしてほとんどの親は気付いていない。。

ムカシは、昨今ほど親は、コドモの勉強に介入してきませんでした。
そうするとどうなるかといいますと、年数回の通信表による定量的評価と、あとはたまに出席する授業参観でのコドモの振る舞いのイメージから親が勝手にコドモの力量を判断してしまうのです。
判断材料が乏しすぎると思いませんか?

先生が、自分のコドモができないと判断したら、それをはっきりとは言わないまでも通信簿にそこはかとなく書く。
親はかたくなにそう信じてしまう。
たとえば生活態度であれば、通信簿の備考欄にでも書かれているのでしょうが、各教科については、自分のコドモがたとえば理科なら理科の中で何が弱くて何は得意なのか、ということを知らない。
たとえば通信簿が2だったとしても、それはその教科における総合評価であって、その教科の中でもいろいろな分野があるのです。ぜんぶがぜんぶ2(平均以下)ということではないはずです。

塾も同じようなものです。塾は、ロコツに客観評価をしますので、それに対して親が安心してしまう(安心してコドモに「レッテル」をはってしまう)ということです。
それどころか親のほうが客観評価を待っている。だから塾に通わせる。
(僕は塾については肯定的ですがそれはコドモのセカンド・スクールの機能としてです)

ところで、昨今は、親がずいぶんとコドモの勉強に介入してくるようになりました。
そうすると、親は親なりに、コドモの力量が事細かにわかってしまいます。

特に親というものは(なぜか)コドモの頃の自分よりデキが悪いなあ。。と思いがちなのです。
親は、自身がコドモの頃の評価を美化してしまっていますので。。

親がコドモの力量を、先生の評価にゆだねるのではなく自身で把握するのは悪いことではないのですが。。
たとえば学校での成績評価も悪いのに、そこに追い打ちをかけて親も「アンタできないねえ。。」などといってしまったら、もう決定的です。

親は、結局、ひたすらほめてあげればいいと思うのです。
それは、勉強の分野限定で。生活面、躾の面はまた別なハナシです。

ただ、それもころ合いが大事で。。たとえば、コドモが通っている学校、あるいは担任がホメて伸ばす教育方針で、ほとんどダメ出しをしないような環境なのであれば、親はそれを受けて「ちょっとダメじゃない?」といってあげてもよいのかもしれません。

親の大事な任務は、「この部分はアナタはよくできる」ということをはっきりといってあげることです。そして「この部分はちょっとできない」ということをはっきりいうかどうかは、ころ合いを見計らって、です。
学校や塾でウィークポイントを冷徹に評価されているのであれば、追い打ちをかける必要はないでしょう。そして、「でも、がんばれば大丈夫だよ」といってあげること。

実際問題、「勉強なんて」がんばればなんとかなるのです。