誰のための仕事
誰のための仕事
前回は、暮らしの手帖を読んでいて気になったことを書いたのだけれど。。
もひとつ気になった文章があって、それは、「陶芸家」と「陶工」のハナシ。
(それにしても「暮らしの手帖」にはいろいろなヒントが隠されていると思う)
いわく、陶芸家とは自分が正しいと思うモノをつくるヒトであり、陶工とは客が正しいと思うモノを「つくれる」ヒトである、と。
前回書いた、「職人が作家性を持つ」というハナシと、言い方を替えているだけで同じことを言っているのだろうけど。。
「ごもっともです」という感じ。
このハナシも、システム設計構築にひきつけて考えることのできる、良いテーマである。
システム屋には「陶芸家」(気取り)が多すぎる、と多くの顧客は考えている。
陶芸家は、いってみれば、ワガママなスターだよね。自分の作りたいシステムを、つくると。
システム屋は、その存在そのもの、すべてのレイヤ、すべての工程が顧客にとっては「裏方」なんだから、個々がワガママなスターである必要はまったくない。
そのプライドはジャマなだけだ。
が、いわゆる「コンサル」とかね、上流、上位レイヤをやってるヒトたちに限って、自分たちが主役であろうとして前へ、前へ出てくる。
上流だろうが、(どれほどカネ勘定がおじょうずだろうが)同じシステム屋、同じ穴のムジナなのにね。
以前、きたみりゅうじさんもどこかで書いていたが、いわく、アマチュアのほうがプログラミングはうまい。かもしれないがそれはカンゼンに独りよがりであって、
閉じた世界の、プログラミングの美しさが顧客の要求する品質の良さと比例するかといえばそうではない、とかなんとか。。(それどころか、反比例ぐらいするかも)
記憶がうろおぼえなので詳細は忘れてしまったが。。きたみりゅうじさんの言いたいことはおそらくそういうことであろうと推測する。
陶芸の世界も、「陶工」が重んじられるようにもなってきているらしいし、システム屋の世界も、スタンドプレイをする陶芸家気取りよりも陶工が重んじられるべきだ。
と、僕は思うし、ギョーカイ的には「総論賛成」のはずだが、内心そうは思ってない輩が多いようだ。
このギョーカイが変われるかどうかはそこの意識改革にかかっている。
おそらく、ただ意識を変えるだけでいいのだ。陶芸家も陶工も、同じ技術を持っているのだ。ただその技術を、自己満足のために活かすか、客の満足のために活かすかの違いにすぎない。
「生産性を上げる」というのは突き詰めれば顧客満足度を上げるということに他ならない。いかにスピーディーに仕事をしたところで、その結果が評価されなければ生産性が高いということにはならない。
前回も生産性についてはちょっとふれたけど、前回書いたのは、生産性を上げるとは仕事を通じて自分を成長させるという一側面もある、ということ。
ということは強引な三段論法により、顧客満足度を上げる努力を通じて自分を成長させることができる、ということになる。
さらに、ここに「のみ」が入ってもよい。つまり、 顧客満足度を上げる努力を通じてのみ仕事によって自分を成長させることができる。(顧客を意識しない仕事では自分を成長させることはできない)
ということ。
ムズカしいのは、誰に評価されるべきか? 顧客とは誰か?ということなのだが。。
会社の上司の満足が顧客満足と連動しているのであれば問題ないんだけど。。
そうでなければ、組織やチーム全体が分裂症気味になってゆくんだよねえ。
かつての公務員の仕事、あるいは電電公社、国鉄、専売公社なんかは、カンゼンに分裂していたよね。「上司」は顧客の満足度をカンゼンに無視していたから。。
僕の仕事もけっこう分裂しているところがあって、僕はSIerに雇われるわけだから本来僕のお客さんはそのSIerであって、その向こうにいるユーザはみなくともよいはずだ。
でも、SIerの満足ってのは相当、「技術屋よがり」なところがあってね。。
高い確率で、顧客の満足には結びつかない。
それは、近年だいぶよくなってきた(顧客満足とSIer満足が近づいてきた)けれども、まだまだである。
顧客と技術屋ってのは根本的に相容れないのだ。
だから、ビジネスとしては脱・技術屋を目指さなければならない、
のだが。。
自分の(ビジネス・シーンにおける)価値っていうのは、いかに柔軟に顧客満足のニオイを嗅ぎ取り、実現させてゆくかというスキルレベルのことだと思うのだけれど、それは往々にしてゼネラリスト的な動きなんだよね。
つまり、顧客の満足をあまりに追っかけてるとそれは、顧客の「顔色をうかがう」行動に変化していってしまい、「エンジニア・スピリッツ」みたいなものが失われてゆくんだ。
そうすると顧客から求められているエンジニアリングのレベルが下がってしまったりして、逆に顧客離れを加速させたり。。
そのあたりにジレンマはあるよね、常に。
僕だけじゃない、このギョーカイの永遠のテーマなのかもしれない。
結局、僕は「陶芸家」を批判したいのではなくって、陶芸家っていうのは結局「ビジネスマン」じゃないんだよ。陶芸家になりたがるっていうのはビジネス・シーンから降りたいということをいっている。
でも僕らはどうあがいたところでビジネス・シーンから逃げ出すことはできないのだ。世の中のトレンドが顧客第一主義にシフトしてゆくのであれば僕らもその時流に乗っていかなければ生きてゆけないのだ。