元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

思想的には「偏らざるを得ない」

思想的には「偏らざるを得ない」
思想的に、偏らないように生きたい、とムカシから考えてきたのですが、昨年わかったことがありまして、それは、自身が思想的に偏る偏らないではなくて、偏った団体に属さないようにしようと、それだけなのです。

宗教団体は当然のこと、政党もそうですが。

政党は属しているわけではないけれど、支持政党も持たない。

と、いうことは、自身がインディペンデントであれば、思想的に偏ってもいいということです。そう思って、昨年は仏教に傾倒してきました。

言い方を変えれば「自身がインディペンデントであるためには、思想的には偏らざるを得ない」といえるかもしれません。

ここから、ヘンなスピリチュアル系につながっていってしまったり、自身が「お告げをうけた! オレは教祖だ!」といった方向へ走ってしまわなければ、それでよいのです。

ただし、個のつながりは、もちます。

たとえば、私は、お話をして好感を持った区会議員のヒトがいましたが、政党に関わらず投票してきました。

根拠は「そのヒトに好感を持ったから」と、それだけです。

宗教団体に属しているヒトと、茶のみ話もします。ちょっと警戒は、しているかもしれないけれど、それは仕方のないことです。

団体に属しているヒトは、相手が自身を警戒する、というリスクは織り込み済だと思いますし、それぐらいのリスクは背負ってほしい。

僕が特定の政党のヒトや特定の宗教団体のヒトとハナシをしたりするだけで、「アイツは○○党なんだな。。」「アイツもついに○○教に。。」と、短絡的にカテゴライズするヒトは、いましたね。

そういうふうにくくっておけば、ラクなのです。

そういうウワサをするヒトたちは、きっちり「個」を持ちながら、染まらず、対等な関係で団体と接することができる、ということを信じられないのです。

必ず染まってしまうものである、と。

染まるも何も。。僕はそもそも他人および他人の生活に興味が、ないのです。

ところで、なぜ既存仏教であれば自分は許せるかというと、それは「古くからある」というただそれだけ。

なじんでいるのです。この世の中に。

僕の中では神仏は混交しているというよりは、同じレイヤにあるとでもいいましょうか、どちらも同じぐらい普遍的なものです。「日本、という国がある」ぐらい。

天皇家もそうです。天皇家というのは、「ただ、そこにある」。(実際、御所とか皇居とか、物理的に近いところに住んでいる、というのもありますが)

天皇制云々、というのは自分にとってどうでもよいことです。天皇のご一家がこの国に「なじんでいる」というのであればムリに解体する必要もないでしょうし、そもそもマスコミで騒ぎ立てることもない。

と、考えて、敷衍して突き詰めてゆけば、なぜ自分はこの日本で生まれ、今ここにいるのか? というギモンというのは氷解してゆくかもしれませんね。

「ただ、そこにある」。