元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

仕打ちはわすれないよ~(ふつうそうでしょ)

仕打ちはわすれないよ~(ふつうそうでしょ)
オイラは、ヒトから受けた親切もゼッタイに忘れないようにしている。それは、プライベートであってもビジネス・シーンであっても。
忘れないだけではダメなので、たとえば、「あのときは親切に対応してくれましたからねえ」と、後日コトバにして伝えるとか、あるいは実際的に、忙しいときもそのときの恩を忘れず、割り込みで依頼作業を受けるとか、そういうことは極力がんばろうと思っている。

ヒトから受けた親切を、アタリマエのように感じてはダメだと思う。
特に、ビジネスライクではない親切。たとえば、インテリジェントビルとかだと、メンテナンスのパートのおばあさんとかがかいがいしく働いていて、トイレ掃除だの、机上のぞうきんがけだの、してくれることがある。
それはすごくありがたいことなんだけど、多分にビジネスライクではある。

ここで書いている親切とは、誰かが、ビジネスとは関係なく、僕のために善意でやってくれること。それを、ゼッタイに忘れちゃダメだよ、と。

特に忘れちゃいけないのは、継続してかつ間接的に受けている親切というか。。
たとえば、頼まれもしていないのに、オフィスの女性陣とかが、オフィスで小さな植木で緑を育てていたりする。継続的に水をやったり。
彼女らは好きでやっているのだろうけど、その緑を目にする僕らも、良い気分になる。
それは間接的に親切を受けているのと同じだ。そういうのも忘れないようにしよう、と思う。でもエラそうにこんなこと書いてるけど、こういうの(間接的な親切)に気付いたのは35歳を過ぎてからだった。

 

ところで、ホントの失敗というか、故意ではないミスはどうするのか?

その、故意でないミスにより、僕個人が損害をこうむったのであれば、おぼえてるよそりゃ。アタリマエじゃん。出来事としておぼえている。

でもこれは、おぼえているランク低に位置づけられるよね。

数十年生きていると、オイラに対して悪意を見せながらヒドい仕打ちをするヤツもいる(いた)。悪意があるかどうかは「目」をみりゃわかる。そういう仕打ちはたぶん死ぬまで(このギョーカイから足を洗っても)忘れないだろう。

それは極端な例だけど、たまにさ、故意ではないにせよ何度も同じ失敗を繰り返すヤツがいるよね。それは、オイラはほぼ「悪意」とみなしている。

なぜなら、ビジネス・シーンにおいては同じ失敗を繰り返すのは致命的だからだ。そういうヒトは自身の向上、成長を放棄していると判断することにしてるよ。

だってさ、何回も同じ失敗するヤツって「使いずれー」でしょ?

オイラのもうひとつのウラモットーとして「謝るぐらいならやらない」というのがあって、オイラはオイラで、他人に影響を与える言動にすごく気を遣っている。
他人に根に持たれるような、悪い影響を与えるような行動は極力とるまいと思っているし、良い影響を与えるような親切は、できる範囲で、押し付けにならない程度にがんばろうと思っている。

今のところは、そう思っときゃいいかな、と。思っておきさえすれば、自然、行動にあらわれると思うし。

自分はがんばっている自負はあるから、他人の「仕打ち」に対してもキビしい視線を保てる。

 

結局は、ビジネスにおいて携わるヒトたちのすべてのオイラに対するアクションを記憶しておこう、ということか。良いことも悪いことも。