元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

捨てる

捨てる

 

人生を楽しむには、いろんなモノ、ことを捨ててゆくのも大事です。

僕らが考えなければならないのは、困難に対して「立ち向かう」か、「捨てる」かの選択。

あまりにも「捨てる」ばかりやっていると、自身に対してうしろめたくなってきて、楽しめません。

困難に立ち向かうことも大事。

だから、「困難」を取捨選択しよう!ということです。

無用な、自身にとって成長も何もない、ほとんど「いいがかり」「クレーム」的な困難は、うまい具合にスルーしなければならない。

スルーすれば、結局誰かが背負うことになります。でもそこで、「申し訳ない」という気持ちを起こすとすぐさま誰かにつけこまれます。

だから、その(自分がスルーした)困難が誰かにぶつかったら、その誰かの人間的成長になる、そして、「適材適所」で、その困難をラクラク解決してくれる器の人間がいる、と思えばよいのです。

おおよそ、自分が一生懸命生きていれば、自分にふりかかる困難というのは自分が立ち向かうべきものです。

自然に「困難」側も淘汰されてゆきます。前向きに生きている人間には、さらに前向きに進めるような、ドライブをかけるような困難がおあつらえむきに訪れます。

逆に、後ろ向きに生きている人間には、さらに後ろ向きにさせるような「なんでオレばかりが。。」と思ってしまうような困難がやってきます。

これはなぜそうなるのか? 僕にはそんな深遠なことはわかりません。

ですが、実際そうなのは確かです。

前向きに生きている人間は、外的要因、あるいは見えない力の作用により、無用な困難を「捨ててもらっている」。神なのか「サムシング・グレート」なのかはわかりませんが、それらの存在が、自分が直面する前に「困難」を取捨選択してくれているのです。

つまり、そういう存在は、前向きに生きている人間の成長を助けてくれる、いや、助けたくてしょうがないのでしょう。

後ろ向きに生きている人間には、前に、困難を取捨選択してくれる存在がつかない。だから、なんでもかんでも困難がやってくる。中には、自分にとって克服するにふさわしい困難もあるのでしょう。ですが玉石混交とはまさにこのことです。

ですから、後者に陥ってしまっているヒトは、どこかで自分に相当の負荷をかけて、自身の姿勢を前向きに持ってゆかなければなりません。

でもそれは強制ではないので。。次々に無用な困難(小さいのから大きいのから)がふりかかる人生に不満ばっかり述べて、実はそれでも結構満足しているようなマゾ的なヒトたちは、そのままでいてほしい。

彼らは、愚痴を言い続けている状態が快感なのですから。

僕が(こっそり)思っているのは、そういう(困難の)受け皿になってくれている、後ろ向きな方々がいてくれるおかげで、自分らがますます積極的に生きてゆけるということです。

つまり、少しだけ感謝しています。

困難というのは誰かが引き受けなければならないので。。

さて、ここまで書いてこの前提を覆すようですが。。

いかに積極的に前向きに生きていても、「事故」は避けられないのです。「サムシング・グレート」がよそ見をしていることもあるでしょう。そのすきに、100%理不尽な困難が自分に訪れることもあります。

その大小はまったく運なので、自分が死んでしまうこともあるでしょう。家族兄弟親類が殺されてしまうこともあるでしょう。北朝鮮核兵器を日本に落とすこともあるのかもしれない。

まず、死んだら死んだで、仕方がない。できれば即死をのぞみます。

愛するヒトたちが死んでしまったら。。

まだ、そういう困難を経験したことがないのでわかりませんが。。

それを受け入れることにより自分が成長する、と、やや俯瞰めに考えるしかないのでしょうね。

それすらも含めて、自分が受け入れるべき困難だったに違いない、と。。

そこでぐちぐちと後ろ向きに、退行してしまわないように、日ごろの精神的鍛錬が必要なのでしょうね。
日ごろの鍛錬は、いざというときのため、と考えておくことにしましょう。