元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「ママさん界」といじめ

「ママさん界」といじめ

最近、いわゆる「ママさん」たちの生々しいウワサ話を耳をダンボにして聞いていて、わかったことがある。

それは、「いじめ包囲網」といったようなもの。。

自分のコドモが通うクラスで、いじめの兆候があったときに、親は相当敏感に、少なくとも担任よりは早く、気づいている、ということ。

最近、コドモはフランクに親に言うらしいので。

だから、いじめの兆候の第一報は、相当早い段階で担任の耳には入る。親からね。
その段階で親は「モンスター」化はしていないはずなんだ。
(「兆候」を担任とか学校が無視すると、親は「モンスター」になる)

いじめっ子、というか、この時点ではいじめはまだ兆候なので、いじめっ子予備軍になるわけだが、その親は早々に包囲される。

いじめの兆候が出たというときは、「準被害者」は複数にわたるらしいから、その準被害者の親たちは早々に連携を図る。そして、それ以外の、まだ準被害にあっていない親たちを早々に取り込んでしまう。

「数の論理」で、いじめっ子予備軍の親に立ち向かうわけだ。
なぜなら、いじめっ子予備軍の親っていうのは少々、「エキセントリック」なところがあるわけで。。

だってさ、このご時世で、コドモがカンタンに(自然に)トモダチを殴ったりするということは、親にその兆候があるからだよ。コドモはおそらく初期段階ではそれを悪いとは思っていない。親の性癖をそのまま受け継いでいるだけのことが多い。

コドモが自然に、「手下」を使って他の子に「パンを買いにいかせる」(比喩)つまり、直接手を下さずにボス面する、というのも、同じ。それは、親の真似をしているだけ。

まァそういうわけで、いじめ包囲網が敷かれるまでに現代ではそれほど時間がかからないようなので(東京のハナシ)、小学校においてはいじめは減っているに違いない。

これは、とてもいいことだ。トモダチとの深い関係性と比べて相対的に親子の関係性が復活してきた、とみる。つまり、トモダチ同士で「親にいうなよ!」と口止めされたとしても家庭の雰囲気の中で「実は。。○○ちゃんが。。」と「カルく告白」できる。
そういう雰囲気づくりを、今の親たちは相当がんばって、やっている。

ところが、
小学校がそのように改善されてゆくと、コドモのダークサイドはすべて鬱積してしまって中学校に持ち越される。

そして、中学に上がるとコドモは反抗期に入り、家庭で親に「カルい告白」をしなくなる。だから、いじめというものが親が気付く前によりダークに、先鋭化されてゆく。気付いたころは相当マズいことになっている。

そして、中学では独りが攻撃される。つまり、いじめられる側の親が(いじめに気付いたとしても)「包囲網」を敷くことができずに孤立するわけだ。

中学のいじめでの自殺者を減らすために、なんとか小学校の手法を導入したいものだが、果たしてどうすればよいのだろうか。

斎藤一人さんのメルマガによれば、とにかく、「穏便にことを済ます」のではなくて話を大きくすることが肝要、と書かれていたが、確かにそのとおりだと思う。

つまり、中学校の親こそ「モンスター化」すべきなのだ。小学校ではなくて。

自分のコドモがヤバめだったら速攻で学校の職員室に押しかけて、担任の目の前で教育委員会に電話すればいい。(電話番号はもちろん、調べてゆくこと)

だが、それは、そうなってしまった後の手法であって、萌芽のところで摘み取るにはどうしたらよいか、といえば。。

正直、今はわからない。いじめに遭うのは交通事故的要素もある。気が弱い人間はクラスに複数いるが、いじめの標的にあうのは高い確率で一人であり、そのコが選ばれるのに理由なんかない。「たまたま」いじめっ子の逆鱗にふれるコトバを発した、とか。

 

そもそも誰もが優しくて、ケンカもイジメもないコドモ社会を夢想するほうがおかしい。だから、コドモ社会をそのように夢想して、自分の子を優しい「だけ」の人間に育てようとするほうがおかしい、ともいえる。