元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

あわせ技による幸せ

あわせ技による幸せ

幸せを呼び込むのは「あわせ技」です。(というフレーズを思いついたので、メモっています)

たとえば玄関をきれいにしておけば福を呼び込むことができる、といわれますが、確かに、家に福は入ってくるかもしれませんが、その家でグチばっか りいっている人間には近づかない。「福」を家に呼び込んだところで、その福を与える対象がいないとわかったら「福」は出ていってしまうでしょう?

で、「玄関をきれいにしても福がこないじゃないか!」と一人で勝手に怒って、その習慣をやめてしまう。。

そもそも福を呼び込むために玄関の掃除をしていた、というのが判明した時点でアヤしいですけども。。(そんなヒトに福はこないのがふつうでしょ う)

幸せというのは「あわせ技」つまり連関だということをわかっていないというのも致命的ですし、せっかくやっていた善行を、幸せがこないからという 理由でやめてしまうのが追い討ちをかけてダメですね。

そのひとつを続けていさえすれば、後日別な善行とのあわせ技で幸せがやってくるかもしれないのです。

でも、玄関を掃除する、とか、そういうことは、幸せを呼び込むとかそういうヨコシマな目的のためにやるものではないですよね。それは自然に継続す る「課」であって、それにより幸せになろうがなるまいが続けなければならないことです。

ですが、いいじゃないですか。それによりまず、玄関がきれいになるという「結果」が、すぐついてくるのですから。。