元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

衣食住「充足」の定義

5年前にきっちり定義していたようです。
衣食住「充足」の定義

衣食住が充足しているという事実に対する感謝を忘れると、ヒトはとたんに不安になるようです。(【重要】)その事実を私は最近知りました。

だから、常にそれをアタマの片隅には意識するようにしています。

カネというのは衣食住が充足できる程度にあればよい。

衣の充足とは、最低限度の数の「衣」が常に清潔かつ整頓された状態で存在すること。

そのためには、キタナくなったら洗濯し、乾いたら畳んで整然と収納されている必要があります。また、収納されるに足るスペースも必要です。

食の充足とは、お腹が空いたら健康を害しない食を、腹七分目、毎日食べれること。

そのためには、最低限の吟味された食材が常に家に保管されている必要があります。その状態を維持するために継続して「買い物」を行い、補充する必要があります。食材の原材料を吟味する必要もあるかもしれません。

また、食料はそのままでは「食」とはなり得ないので変換する装置が必要です。この「装置」とは、「おかあさん」になることが多いのですが、洗濯が全自動に進化していったように、機械に替わっていっても構わないのです。「おかあさん」がコドモの食事をつくるのが愛情である、というのは幻想であり、最低限の食の充足を超えたものであり、「ぜいたく」なのです。

たとえばコドモは、自身で料理ができるようになれば良いでしょうね。

住の充足とは、雨風を凌げる清潔でかつ整理整頓された住宅を持つこと。

「住」とは「住宅」というインフラだけを指しているわけではありません。いわゆる「日用品」が常に、切らすことなく存在することも重要です。

掃除をして、清潔に維持する「義務」が発生します。コキタナい住宅に住むということは「充足している」とはいえません。

このように、衣食住の「充足」とは、ただある、あるいは買う、だけではなくて、状態を維持する必要があるのです。

常にストレスなく維持できる状態、常に衣食住が充足している状態が「豊かな生活」であるといえます。

ある一瞬だけ充足されてもダメなのです。それでは「波」ができてしまいます。衣食住が充足されていない期間が少しでもある、あるいはそれが実は常態化していて、ぽーんと「まとめ買い」などをして瞬間的に充足され、また不足してゆく。。という波がある生活は豊かであるとはいえません。

そのような「ハデな」生活ではなくて、粛々と維持していればそれでよいのです。

それを意識さえしていればよいのですから、HowToとしてはカンタンですよね。それを実施できるかは別として。。

ところで、さらに重要なのは、衣食住に充足した生活を維持してゆく過程そのものが「文化的な生活」なのであって、ぽーんと居間に日本画を飾るとか、「植物のある生活」をするとか、そういう「ゲージツ」を日常に紛れ込ませることが「文化的」なわけではないのです。(【重要】)

それは、食事でいう「スパイス」のようなものにすぎません。しょせん「ゴマカシ」なのです。

そのことに気付いていないヒトが多いことを、自分は憂いています。

前にも書きましたが、骨董品を部屋に飾って文化的を気取るはいいが、それが部屋を占拠してしまって整頓感がなくなってしまったり、ホコリがその品にたまってしまってハウスダストの温床になってしまったりしたらぜんぜん生活が文化的ではなくなってきます。

衣食住が満たされていて(つまり、維持のサイクルも確立されているということ)はじめて、「ゲージツ」を生活にとりいれることが可能なのです。それは「ぜいたく」になってきます。

「ぜいたく」は維持する努力の上に実現されるものです。