元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

カネを拝むイコール拝金主義とは限らない

カネを拝むイコール拝金主義とは限らない
ウチの長男は、いろいろなことがわかるようになってきましたので、家にある貯金箱(のようなもの)を拝んで願い事をするように躾けています。なぜならば、コドモらぐらいの願い事であればすべてカネでカタがつくからです。

「おカネはいろんなことを実現させてくれるよ」と、機会あるごとに教えています。それは、事実ですから。

ところで、神社や寺、あるいは七夕の短冊など、そういうものに対して願掛けするよりは、おカネを大切にし、大切に思い、おカネにいろいろお願いするほうがよっぽど早いと思います。

逆に考えれば、神社仏閣というものに対してそもそも願掛けすることからしてオカしいことです。

神仏に対してはただただ、「いつもありがとうございます」とお礼をして、わずかばかりでもいいのでお布施を上げればそれでよい。つつがなく、質素に暮らしていっていることに対する感謝を、できる限り自分の住んでいる近所の神社仏閣で行うべきです。

もし、もし願掛けするのであればそれは即物的でないものを(あれがほしいこれがほしい、ではなく)。自分以外の家族、親類、知人等の幸せを願うべきです。ゼッタイに自己中心的な願いをかけては、いけないと思っています。

願った時点で、叶わないことが確定される。

願う前に、行動を起こして、やることです。そして、神さまには「がんばっています」(見守っていてください)と経過報告をすればそれでよいのです。