元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「山から降りてこない」

「山から降りてこない」

イトイ新聞の、中沢新一さんとの対談(最終回)

吉本隆明さんも、中沢さんも、「山から降りてこない」ヒトたちをイマイチ信用していません。

(文中に出てくる「比叡山に行ったきりの人と、比叡山を降りてきた人の違い」)

そして僕も100%同意です。

その「山」で、ハゲしくもキツい修行をされているのは、わかりました、と。

で、そしてどうするの? といったあたりなのです。違和感の源泉は。

思想的に深いところを極めたとして、同じ志を持った同志たちの集うところに「のうのうと安住する」ようなイメージがあるのです。

強い志をもって、そういう人生を選ぶのであれば、それでもいいのでしょう。その「山」にいれば実際問題、常にキツい修行にさらされるわけですから。

ですが、降りてこないという選択、「山」でキツい修行を続けるということが、そのまま「崇高」とはいえないだろう、ということですね。

市井にまみれる、俗にまみれることを「悪」としてしまう傾向があるのです。そういう「山」に篭りたがる方々は。

ビジネス・シーンにひきつけていえば、いわゆる「研究職」なんかがそれにあたるような気がしてなりません。

つくばや横須賀のYRPでガシガシと次世代開発をされているような方々。。

次の時代をかたちづくるのはすばらしいことですが、そういうセンタンな方々は、それをもってふもとに降りて、そのサービスを売りにはこない。「売る」という行為を下に見ているから。(そして相対的に自分の位置を高いところにおく)

僕の以前からの持論としては、山に篭るでも研究に没頭するでも、そういうことをするにふさわしいヒトたちは、います。

でも、ふさわしくないヒトたち、なりたがりなだけで才能のないヒトたちがたくさん、取り巻きでいる。(多すぎる)

そういう、「選ばれたのではなく強引に立候補していったヒトたち」が、日本の諸々の21世紀的発展を阻害しているような気がしてなりません。

それと、忘れてならないのは「主婦」ですね。

主婦はたまにバッシングを受け、それにヒステリックに反論する「主婦連」に逆にヤラれてしまい、そしてそれの繰り返しです。

主婦に対する批判は、根強いものがあります。

なぜなら、主婦も家庭という名の「山」に篭っているからです。

主婦もなかなか「社会」に降りてきたがらない。

そして悪いことに、篭りながら物言いだけは怠らない。

常に「外野」なのですね。立場が。