元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

時間に支配されない

時間に支配されない

自分が常々書いている、「課」を受け入れること、継続することこそが、禅でいう「時間を使う」ことだと思います。ここが、つながりました。(【重 要】マーク)

まだ仮説ですが、これは、間違いのないところでしょう。もう少し寝かせておきましょう。

ふつーの感覚(今まで)ですと、逆に感じているわけですね。日課、週課などで自分のスケジュールが埋まってくると、自分が時間に支配されている感 じがある。

でもそれは、逆なんだ、と。

確かに最初は、そう思うのかもしれませんし、「やらされている感」があるうちは実際時間に支配されているのでしょうが、その「課」を続けてゆく と、生活に「ダイナミズム」のようなものが生まれてきます。それを感じられるようになったときに、初めて「支配」から逃れられる。

逆にいえば、「継続」しか支配から逃れる術はない。「課」を拒否しても支配からは逃れられない。

ここの理論を、もう少し詰めなければいけないなあ。。

時間に支配されることを拒否したいとは皆、考えているらしいのですが、そのための手段が全く逆である、と。「終わりなき日常」から独り、逃れよう としても逃れられない。ドツボにハマるだけです。

日常と「親和」すること。

時間の支配から逃れて、時間を「使う」ようになればそれでよいわけで、そこで、時間を支配してやろうなどと考える必要はありません。

少し前、早起きを続けてしばらくしてから感じた、あの解放感。。 朝、余裕があるとなぜか、一日が仕事中心にならないという不思議な感じ。。

あそこにも萌芽はありました。

現代人の通奏低音としての不満足感は、マスコミ、というよりはもっと大きな、「時間」に支配されてしまっているからなんでしょうね。

そしてマスコミこそが、「時間」に支配されてしまっている権化です。時間に支配されてしまっているモノに支配されてはいけない。

それにしても「早起きは三文の得」とはよくいったものです。。

「三文」とは、わずかな、の意でしょう。でも、そのわずかを積み重ねれば、「ちりも積もれば山となる」。

日常のかすかな不満足感をかすかな満足感に変えるぐらいのことは、できるのです。