元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「死」はどこへいったか

「死」はどこへいったか
10年ほど、ぴたっとフタをしていた「死」に対する考え―これを、このパンドラの箱を今、少しずつ開けているわけですね。

自分は、かつて、「死」というものがぐっと近づいてきたときに、今考えてみるととてもうまく対処しました。それに対する感情のようなものを、「ぴ たっと」どこかにしまいこんでしまうことができたのです。

いま考えるとなぜそのような「技術」を持っていたのか、わからないのですが。。

それを箱に入れたのかダストシュートに投げ込んだのか、それはイメージの世界ですのでわかりませんが、それが10年ほど経過して、醸成されてきた か、あるいはもう暴れまくってどうしようもなくなったのか。。

とにかく、「開けてみる」必然性があるようです。「時はきた!」と。(ケロちゃん@新日本風に)

開けてどうなるのか、開けたらどうなるのか、という答えは、早急にみつけなければならないわけでもなし、性急にやる必要があるわけでもなし、結論 はおいおい出ることでしょう。

ですがはっきりしていることは、それを開ける触媒として「宗教」というモノはゼッタイに必要であったということ。それも、自分が毛嫌いしている 「新興シューキョウ」ではなくて、もっと根源的な「宗教感」のようなものです。

それはいってみれば「死生観」の先にあるもの、といってよいでしょう。数多の先達が「死」を極限まで考えた先にたどり着いた結果、つまり「叡智の 結晶」ですね。

それを僭越ながら拝借して、自分の触媒にさせていただきましょう、ということですね。