主体と客体 擬人化
主体と客体擬人化
鈴木大拙の本を読みながら、ヒトがモノを見るときに主体と客体に無意識のうちに分けてしまう、という話で思い出したのは。。
最近、動物だの植物だのをなんでもかんでも擬人化してデフォルメしているのが目につくなあ、ということ。
はるかムカシから、たとえば絵本などではひっそりとこういう傾向がありましたが、今は「キャラクター」という形でどんどん動物が「スカウト」さ れ、擬人化されています。
そのキャラクターのストーリーの中では、動物が立って歩く。しゃべる。おとうさん動物は、ネクタイをして会社に行く。etc。。
最近、あまりに「キャラクター商品」が増殖しているおかげで、少しずつ違和感を感じていたのですね。
違和感を感じていること自体、気付いていませんでした。なぜならば、皆が皆、なるべく「違和感」を感じさせないよう、動物に演技させているからで す。
たとえば外見がカワいい動物はそのまま良い子として擬人化されます。ですが、外見がカワいくとも凶暴な動物はいるわけです。
といっても、そういう動物をもたとえば「小悪魔」的キャラクターとして「キャラ立ち」させようとするのでしょうが。。
そのキャラクターがなぜ鈴木大拙と(自分の回路の中で)つながるかというと、動物をキャラクター化しているとうことは、現代人は「山は山、川は 川」とありのままに見れない、ということをロコツに示しているからです。
たとえば、ネズミはネズミであり(ディズニーのように)踊ったりミュージカルをしたりはしない。
ネズミに服を着せて躍らせる、という空想を、全否定はしませんが肯定できません。
この時代はその空想を「やりすぎ」なんですね。
たとえばコドモたちは「アリさん」も悩みを抱えているんだね、と(空気的に)教わります。でもアリはアリであってただただ働いているに過ぎない。 それはいつ知るのだろう? このキャラクター化された世の中では、コドモはオトナになってもずっと「アリはアリである」とは思う機会がない。
それが、「純粋なコドモ心を持っている」だと思ったら大間違いなのです。
なぜ大間違いなのか、を説明できないのがイタいのですが。。
ガキのままオトナになる、というのが正しい手段ではないのです。一旦オトナになって、かつ「コドモの心」を持ち続ける。大拙風にいえば、「糞尿を 垂れ流したままオトナになるということではない」ということなのです。
分別の中にコドモの心を持つこと。