元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

市井の人々

僕の中のクラシック 何回か再録しているはず。。
市井の人々
市井のヒトビトは、ムカシも今も、思想しているわけではありません。

ですが、かつて「思想」あるいは「哲学」の類というのは、インテリ層の趣味として確かにありました。

でも今は、インテリ層は何も「思想」していない。思想は明確に放棄しました。

そして、「思想」はカルト化してゆきます。

今、「インテリ層」というのは未だ存在しているはずなのに、そういう層のヒトたちはアタマはいいはずなのに、何をやっているのだろう?

と、思うことが多々ありますね。

それは、文字通り「アソんで」いるのですね。機械を「アソばせている」のと同じ意味合いで。

とても、もったいないと思います。

カネを稼ぐ、そしてカネを使う、という経済活動以外に、インテリには「思想する」あるいは「哲学する」という特権が与えられていたのに。。

その、経済活動以外の、一見、そのときはムダに見えるかもしれない活動によって、彼はは「人生とは」とか、死生観のようなものを、漠然とではあっ ても感じることができ、現実社会と折り合いをつけることができていたはずです。

ちょっと話を戻して。。市井のヒトビトはかつては思想せずとも自分の思想的バックグラウンドを持つことは、できました。それは、世の中の「仕組 み」が今よりもずっとカンタンだったからです。

(その世の中の「仕組み」を今よりもカンタンに戻したい、という潜在的反動が少しずつ盛り上がってきています)

でも今は「思想」「哲学」なくしてはよりよく生きることはできない。「読み書きソロバン」だけでは生きられない。

具体的には、流れに任せて生きるのではなく(「流れ」は、悪い方向に向かっているらしいから)、時に立ち止まり、「これでいいのか?」と、よりよ く生きるための自問自答を繰り返しながら、生きてゆくしかない。

でもそれは、よりよく生きようという意志を持ったヒトたちだけがそうすればいいだけであって、「べつにふつー」でよければ、そんな精神的苦痛を伴 う自問自答を行う必要はありません。

何もせずとも飢え死にはしないのですから。

ですから、やるかやらないかは、自己責任を伴う重要な人生の選択になります。

ですが、ここからは何度も書いていることですが、この世の中の流れに任せて生きることを選択するのであれば、常に慢性的な不満足感を感じて生きて いく他ない。だから、「市井のヒト」を自認しつつ変わらなければならないのです。

もっと端的にいえば、戦後の、教育の質の向上、および教育の「カバー率」(「高校進学率」と似た概念)に比例した「インテリジェンス」が、市井の ヒトビトにも必要になってきている、ということ。

ムカシはインテリ層の特権だった「思想すること」「哲学すること」を、市井のヒトビトも十分実践できるぐらいキレるアタマを持つようになってきた のです。教育の質の向上によって。

「思想すること」「哲学すること」とは、自問自答そのものです。

でも、「キレるアタマ」という強力な武器を持ったにも関わらず、「市井のヒトビト」はそれを「思想」「哲学」に使おうとはしません。なぜなら、そ れをやることに慣れていないからです。

もうひとつの理由は、もっと巨大な勢力が、それをやらないよう仕向けているわけです。マスコミを通じて。

マスコミおよびマスコミの向こうにある強大な「何か」は、市井のヒトビトが「思想」「哲学」されちゃあ困る明確な理由があります。

経済活動がマヒするという脅迫観念があるわけですね。市井のヒトビトにはずっとずっと、「バカ」であり続けてほしい。宣伝に一喜一憂して、何かが 強力に売り出されたらすぐ行列してほしい。そしてすぐ飽きて次の消費をしてほしい。。

「十分に商品を吟味して」などという消費行動は、ゼッタイにやめてほしいと思っています。

(話変わりますが、一部の政治家は、このまま投票率は上がってくれるな、誰にいれるかよくわからない無党派層は選挙に足を運ぶな、と考えています が、それと似ています)

かつて趣味で「思想」「哲学」していたインテリ層すらそれを放棄しているという事実。

私は「非常事態」であるとすら考えます。

享受した教育に比例した、インテリジェンスな活動を行わない。主体的に放棄する。

いや、違いますね。。何かしらの活動は行っているようなのですが、その活動のベクトルが、完全に間違っている方向に向かっている、とでもいいま しょうか。。

たとえば、「生涯学習」というのが一時期ピックアップされ、今もその流れは続いているのでしょうが、あれにより人生が豊かになったと思えるヒトは 何%いるのでしょうか。

駅前留学」して海外旅行に行って、ちょっと現地でコトバが通じて嬉しい気持ちになって。。 それがナンなのでしょう?

上っ面だけの学習なのに、ヒソかにその世界のプロになる夢を描いているのでしょうか? 市井の地に足の着いた生活をなげうって。。 「あわよく ば」と。

私は、今までカンタンなことしか書いていません。「よりよく生きるには」の答えは、「どうやって死を迎えるか」をホンキになって考えることです。 (そしてできれば「いつ」死を迎えるか、も)

まずそこからでないと、何も始まらないのです。そこから逃げているヒトが多すぎます。

「庶民」、具体的には「庶民のインテリ」(今現在、ほとんどの庶民はインテリといってよいはずです)から「思想」「哲学」する態度が消滅したと同 時期に、ただの庶民、すなわち市井のヒトビトが、「考える」ことすらしなくなった。

「考える」とは「思想」「哲学」の前段階です。

以前から書いている「物理的負荷の軽視」の話につなげてゆくと、「考える」そして「考え続ける」ことが「精神病」(あえて「神経症」などという耳 障りのよいコトバは使いませんが)の予防になるのです。

考えることにより、「ココロ」が鋼鉄のように強くなり、「トラウマ」などはねっ返すようになります。