元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

あらためて死と向き合う

あらためて死と向き合う
新興宗教もそうですね。良き話相手になってくれる仲間がたくさんいる(らしい)。

でもそれは、何か違う。傷を舐めあっているだけのような気がしますね。

そして無限に傷を舐めあう相手を増やしていきたいという欲望が生まれる。。それがなぜなのか、も、ちょっとわかりません。

以前も書いたかもしれませんが、欲望を全肯定してくれる存在に対して、「依存体質」のヒトほどふらふらと接近してゆきたくなるようです。


新興宗教は基本的に誰でも入信できて、その後、金さえ積めばどんどん位も上がって、かりそめの解脱ができるようになっている。

その仕組みは、客観的にみると、資本主義社会そのものです。(【重要】マーク)

そこに真の「悟り」はありません。あるはずがありません。

ですが彼らのシステムの中では、「悟り」はカネで買えることになっている。ここに教義の根本的な矛盾がある。宗教が資本主義社会に取り込ま れすぎているのです。


でもそれは、間違ってはいるのですが、外れてはいない、というか。。

悟るためにはカネという触媒が必要である、という事実は間違っていません。新興宗教はそこからの展開が間違っているだけで。。

ビンボーな段階で「逃げ」の意味での宗教にハマるのではなく、ビンボーな段階では「逃げ」をせずにせっせとカネをためましょう、と。カネが たまったときには「逃げ」の宗教に興味がなくなっているはずなのです。

ビンボーな段階で逃げの宗教に入信して、入信してからカネをかき集めてカネ持ちになってしまうと、「逃げ」の気持ちを持ったまま、お金はす べてその宗教に吸い取られてしまって。。

いつまで経っても高みにいけないわけです。

「高いところ」で宗教に接するためにおカネが必要、ということになりますね。


そもそも「高いところ」に行くために必要な「節制」とか「禁欲」という考え方は、ビンボー人には全く意味をなさない概念であり。。

ある程度のおカネがなければ節制や禁欲すらできないのです。ある程度の豊かな生活まで上っていかないと、「節制」や「禁欲」の概念すら発生 しません。

だから、まずそこまで自力で到達しないと、欲望を全肯定する新興宗教にハマってしまうのです。


たまたま「新興宗教」をとりあげましたが、私が考えるこのコトバには、「スピリチュアルなんとか」も含まれます。宗教法人か否かは関係あり ません。「逃げ」の意識を持った、依存体質のヒトたちのココロのスキマを狙った「産業」すべてがあてはまります。