元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

人生をマラソンにたとえると。。

人生をマラソンにたとえると。。
マラソンにおいては、結局は自分のペースを守った者が勝つという。

たとえば、人生において、他人にふりまわされたり、となりがマイホームを買ったから自分も買う、とか、そういった状況は、マラソンにたとえれば自 分のペースを乱して相手と竸っている状態ですね。

こんな状態が続けば、完走はできない。

はずなのですが、現代人の人生のほとんどは、他人に影響されて自分のペースを乱しっぱなしであります。

人生における「完走」というのは、自分の身の丈にあった人生を全うすることであります。

そこには当然、満足感をともないます。

自分のペースを乱しっぱなしで、「死」というゴールを迎えたとしたら、そこには満足感はない。よってそれは「完走」ではない。

戦後ニッポンでは、おそらく、この「完走」できない人間が膨大に増えたのだろうな、と思うと。。

なんだか、怒りがわいてきます。何に対しての怒りなのか。。

高橋尚子さんも野口みずきさんも、オリンピックで途中からスパートをかけました。

あれは、他人にひきずられたスパートではない。自分のペースの想定内にあるスパートです。

あのように、どこか自分のベストな地点で、人間は人生のスパートをかけなければならない。

でもその地点は他人が決めることではないのです。

現代がコワいなあと思うのは。。やはりテレビの存在。

テレビという存在は「万人の他人」であって、おそらく意識的に、他人(我々)のペースを乱し、自分たちのペースにもっていこうとしています。

つまり、この世の中は常時そのような力がはたらいている、ということです。特定の他人が私のペースを乱そうとしているのであればまだ対策がありま すが、世の中全体が、個々人のペースを乱したくてしょうがないという状態。

だから現代人、特に、僕らよりも若い世代は、おそらく何が自分のペースなのか? ということすら知らない。テレビやマスコミに誘導されるのがあた りまえの状態だと思っているのでしょう。いや、疑ったことすらないのかもしれない。。

ものごころついたときからテレビという他人にふりまわされっぱなしであるにもかかわらず、ふりまわされているという意識がない。

僕の体験上、この現代社会でテレビにふりまわされっぱなしなのは、都会よりも田舎のほうですね。

何か(よくわからない。。「癒し」とか?)を求めて田舎暮らしをはじめたところで、ある程度の意志の強さがなければどうせテレビにひきずられるの です。