元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「人生は正味30年」

「人生は正味30年」森信三(哲学者)
それにしても私が、この人生に対して、多少とも信念らしいものを持ち出したのは、大体35歳辺からのことでありまして、それが多少はっきりしてき たのは、やはり40を1つ2つ越してからのことであります。
ですから、もし多少とも人生に対する自覚が兆し出してから、30年生きられるということになりますと、どうしても65、6から70前後にはなるわ けです。もし今年から30年ということになると、73歳になるわけで、そうなるとまず肉体的生命の方が先に参ってしまいそうです。
このように考えて来ますと、人間も真に充実した30年が生きられたら、実に無上の幸福と言ってもよいでしょう。否、私の現在の気持ちから申せば、 それはずい分ぜいたくな望みとさえ思われるのです。
(略)
一口に30年と言えば短いようですが、しかし30年たつと、現在青年の諸君たちも50近い年頃になる。その頃になると、諸君らの長女は、もうお嫁 入りの年頃になるわけです。

道元禅師は「某は坐禅を30年余りしたにすぎない」と言うておられますが、これは考えてみれば、実に大した言葉だと思うのです。本当に人生を生き 抜くこと30年に及ぶということは、人間として実に大したことと言ってよいのです。
そこで諸君たちも、この2度とない一生を、真に人生の意義に徹して生きるということになると、その正味は一応まず、30年そこそこと考えてよいか と思うのです。

ついでですが、私は、このように、人生そのものについて考えることが、私にとっては、ある意味では、自分の使命の一つではないかと時々考えるので す。
ただ漠然と「人間の一生」だの「生涯」だのと言っていると、茫然としてとらえがたいのです。いわんや単に「人生は――」などと言っているのでは、 まったく手の着けどころがないとも言えましょう。
そうしている間にも、歳月は刻々に流れ去るのです。しかるに今「人生の正味30年」と考えるとなると、それはいわば人生という大魚を、頭と尾とで 押さえるようなものです。
魚を捕えるにも、頭と尾とを押さえるのが、一番確かな捕え方であるように、人生もその正味はまず30年として、その首・尾を押さえるのは、人生に 対する1つの秘訣と言ってもよいかと思うのです。