元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

他人には何も指し示さない

他人には何も指し示さない
崇拝するものは、何も指し示してはくれないのです。ただ、こちらが気づくのみ。

崇拝をされる側にまわりたくてしかたのない人間たちは、しきりと何かしらを我々凡人に指し示そうとしますが、そもそも指し示そうとしている時点で 間違っているわけですね。

我々凡人の同類なのに、卑しい気持ち(「野心」という害のないコトバにおきかえられますが)を持ち、崇拝される側にまわろうとするときの「焦 り」。

しきりに何かを指し示そうとする人種には共通してその「焦り」が感じられます。
何を、焦っているのだろう。。?


さて、崇拝される側にまわるにはどうすればよいか?(僭越ながら「焦って」いるヒトたちにお教えしてあげましょう。。)

どうすればよいか? を文章であらわすことは、僕はできます。が、僕にはとうてい、実現はできませんが。。

それは、最初に述べたとおりで、自分の存在および行動のみで、他人を「気付かす」ことができる人間になることです。
逆にいえば、徹底的に何 も指し示さないことです。

しきりに何かを指し示そうと焦っている人間がいる一方で、何も指し示さない結果として他人に何も「気づき」を与えない人間もたくさんいます。い や、後者が99.9%以上であるといえるでしょう。

別にそれでもいっこうに構わないのです。それがふつうなのですから。

焦っている前者も、他人に何も気づきを与えない後者も、同じ凡人ですが、前者は、はっきりいって ウザいのです。。