元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「余裕」

自分の人生を及第点だと思っている人は寛容です。
政治とかに対しても。

「自分がやってもそんなに変わらない」「政治の表舞台に立っている人の苦労はかなりのものなのだろう」
と、わかってあげることができる。

これって悪いことでしょうかね?


「俺でもアイツらよりはできる」と居酒屋で豪語してる人たち、ホントですか〜?
表舞台にたったこともないのに。

老獪な議員先生連中や官僚に恫喝されたらオシッコもらしちゃんじゃないですか? みなさん。

そういう人は自分の持ち分の仕事すら精一杯やっていない。
という意味ではそういう人を見分けるリトマス試験紙ではありますね。

どんな不況下でも、どのような状況でも、自分の人生を楽しく充実したものにできるというのはものすごい才能であって、はっきりいって今の「政」 (まつりごと)能力の低い政治家(その存在自体が矛盾している)の人たちの比ではないでしょう。

だから、そういう人たちからの余裕の発言「政治家も大変だよね〜」はかなり「上から」であるともいえます。

いや、「哀れみ」かな。


これは僕も言う資格あると思うのですが、「それなりの立場」というのは推挙でなるべきだと思うのです。(推挙は「選挙」とは違う)

目をギラギラさせて、鼻息あらく、立候補の勢いが強い人がなっているポジションっていうのは、
それにふさわしい能力を備えていないということだから。
それは明白。

「ふさわしい能力がないのに野望だけで政治をやっていて、かわいそうに。。」「そんな器じゃないのに」
という哀れみなのです。器が小さいのが透けてみえるから。

ま、それでも、やる気のあるほうがやる気のない僕等よりは仕事はするかもしれない。。
かなり低い次元の話ですけども。
ということです。