元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日課の徹底

日課の徹底

ヒトというのは、日々徹底して同じ日課を繰り返していたほうが、結局幸せになれるのではないか、と最近考え始めています。これは、確信に近 いものです。(【重要】マーク)

たとえば、ヒトは絶対に寝なければなりませんが、そこで偽「個性」を発揮して「オレは寝ない」と高らかに宣言するヒトはいません。

寝ないヒトは究極の個性派だと思いますが。。自称「個性的なヒト」はここまで踏み込もうとはしませんね、当然。「できる範囲の」個性的にし かなりえません。

(ちょっと皮肉が入ってしまいました。。)

脱線しましたが、絶対に寝なければならないのであれば、徹底して同じ時間に寝て同じ時間に起きる。

そうすれば心身ともに健康になりますし、生活も規則正しいものに矯正されてゆきますし、何ら問題はありません。

ジャマになってくるのは、「不規則な生活をしたい」という欲求です。「不規則な生活」イコール「非日常」(今現在、私がキラっている概念で す)であり、ヒトは、ある程度規則的な生活を続けると不規則な生活を渇望するものです。

そこを何とかして乗り切ればいいわけです。

規則正しい生活を続けることにより、その継続が少しずつ快感になってきますので、(経験済です)そうなればゴールはもうすぐです。

想像している「非日常」の楽しさのレベルよりも、実感(実践)している「規則正しい生活」のほうが楽しい、という確信を持てればいいので す。そうすればヒトは自然、快楽欲求のほうへ動きます。

とちらが楽しいか、どのような生活が楽しいか、というのは、マスコミや世間に決めてもらうものではなく自分の経験上から判断するものです。

仕事が忙しくてそんなことできるわけがないとか、休日ぐらいは夜更かしして、昼まで寝ていたいとか。。

そういうヒトは仕事を変えるべきですね。

できるかできないかは問題ではなく、そのぐらいの気概を持っていることが大事だ、ということです。「仕事が忙しくて〜」といっているヒトは 仕事に完全に依存しており、常にどんな状況であってもそれを言い訳にしようと虎視眈々と狙っています。

仕事よりも「健康で文化的な最低限度の生活」のほうが大事なのですよ、当たり前のことですが。。

健康で文化的な最低限度の生活」をするために仕事(お金を稼ぐ手段)が必要なんだよ、という反論が聞こえてきそうですが、それも自分は 重々承知していますが、そのいたちごっこをどう整理するか、というのはまた別な課題ということで。。


食事も、ヒトは1日2回以上は食事をとらないと、問題なく生きてゆくことができないようです。

ですので、食事の時間もあわよくば常に一定にし、食事のメニューも、全く同じとはいいませんが、いくつかの料理のローテーションにしてしま うのが、良いのではないでしょうか。

毎日同じ食事だと飽きるでしょうか? そして、それは「不幸」でしょうか?

ムカシ、私は毎日毎日、年に355日ぐらいは、同じ内容の朝食でした。食パンにマーガリンとハム、紅茶とヨーグルト、などなど。

夕食も、母親の方針により、まず必ずごはんと味噌汁がありました。そして、ムカシの食卓ですから、テーブルの上に乗っている食事のうち何皿 かは毎日同じメニューです。たとえばウチで漬けた漬物とか。自家製のふりかけとか。

たまに、アクセントとして、カレーの日があったり、味噌汁ではなくて洋風のスープの日があったりしましたが、年に340日ぐらいは「米」と 「汁」を食べていました。

ところで、夏休みとか、休日の我が家の昼食は、徹底して軽食のローテーションでした。インスタントラーメン、焼きそば、うどん、そば、 チャーハン、ピラフetc。夏は冷やし中華とか。

私は、出されたものを淡々と食べるタイプでしたので、特に不満はありませんでしたが。。 これも母親の方針だったのでしょう。

外食は、たまにしかなく、たまにしかないがゆえに、けっこう重要な家族の節目のイベントでした。特に、親戚が一同に会する1年あるいは数年 に一度の会食は、ある程度高級なところに「お出かけ」することもあり、親戚どうしの昔話に後々までのぼるぐらいの一大イベントでした。

軽い外食はたまにありましたね。母親が不調のときとか。。 外食というよりは、記憶に残っているのは、出前ですかね。店屋もの。

今書き連ねたような生活って、けっこう幸せな状態ではないでしょうか。

(それに、作る側も、作るものが決まっていたほうが、楽では?)

そして、どこの一般家庭でも、おおよそこんな食生活でした。

でも、こういった選択の幅の少ない食卓を続けていた理由は、ホントは単にお金がなかったからでしょう?

節約することが、結果的に栄養上もより良い食事になり、規則的な生活にもつながり、皆が「地味に幸せ」であるという状態。

現代社会でも、栄養のことをホンキで考えて、バランスのよい食事になるようローテーションを考えて、あとはそのローテーションでずっと継続 したほうが、幸せになるような気がするのです。

「たまには焼肉を食べたい!」とかありますが(私もあります)

それも、半年に1回とか、そういうローテーションに組み込んでしまえばいいのです。そうすればそれを楽しみに生きてゆくことができます。

ムカシの我が家も、給料日とかボーナスが出た日とかは、それなりに豪勢な食卓でした。それも立派なローテーションです。

月に一回(今考えれば、給料日の後)、日曜の昼は、皆でデパートに行き、レストランで食事をする、とか。。

すごく、幸せな光景だと思うんですけどね。


ムカシ、庶民が皆質素な暮らしをしていた時代、誰も彼もが抑圧されていたでしょうか? 誰も彼もぱーっと遊びたがったでしょうか? ある程 度「日常」に満足していませんでしたか? そこに「諦観」はあったか? ほとんどなかったのではないだろうか?

前にも書きましたが、結局皆が皆、「身の程をわきまえていた」と、思うのです。(【重要】マーク)


現在、オトナのヒトたちの多くは、昭和の日本にノスタルジーを感じているのでしょう? それはつまり、貧乏な時代への郷愁です。貧乏な時代 とは、ライフスタイルの選択範囲が少ないということです。そして、食事のえり好みもできないということです。

それでもいい、あるいは、そのほうがいい、ということでしょう?


ところで、睡眠とか食事とか、生きてゆくのに絶対必要な行動以外の、「趣味」の域にはいるような活動も、徹底して規則的に、たとえば1日5 分とかでも、やったほうがよさそうです。これは、最近日記に書き出しているとおりです。

もはや、現代人は多様化するライフスタイルへの適応、選択にうんざりしているのでしょう。情報が多すぎて。だから、選択が少なかった時代へ の羨望を感じているのでしょう。

私は、情報を遮断しているので全くうんざりしていませんが。。

情報を遮断し、ノウハウを与えられるのではなくて、どのようなライフスタイルを送ろうか、自ら主体的に考えて計画しているので、わくわく感 すら感じているのです。


結局、生活に「リズム」をつくることが非常に大事だ、ということをいいたいんでしょうか。(私は)

日課/週課/月課/年課を設定することにより、日/週/月/年の生活のリズムをつくる。そうすると我々庶民の「幸せ感」がアップする。

「課」というコトバが悪いのかもしれませんね。「イベント」でもいいんですよ。それが日常に組み込まれているのであれば。