元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「器」問答

「器」問答
器が大きいというのは「寛大」ということだけじゃないのです。
「寛大」じゃ今の世の中、ナメられてしまうわけで。

寛大プラスアルファ。というのはわかっているのですが、そこからがなかなか進まない。。この日記にはそれがわかる手がかりになるはずの断片が散ら かっているはずなのですが。

器が大きいヒトになりたい、というのはおそらく僕の一生の目的になるであろうし、そのために、「器が大きいとは何か?」をずっと探ってゆくんだろ うな、と思います。

前に書いたことを思い出したのですが、「器」というのは、生来のものと、人生経験によって拡がるところがあると思います。
生来のものは、いまさらしかたないので、その後拡げられるほうについてですが、それを最大限に拡げてゆくためには、質の高い人生経験(の継続、蓄 積)が不可欠なわけです。
ですから僕は貪欲に質の高い人生を模索している。

ということは次に「質の高い人生とは?」という問いになってくる。
それの、今のところの結論としては「ケイゾク」がキーであって、非日常を常に追い求めて、常に「通奏低音としてのかすかな不満足感」を抱え込んで いるような人生ではゼッタイにダメだ、と。

それは、確信があります。
自分の人生を肯定しないといけません。不満足感は払拭しなければならない。

次に、「自分の人生を肯定するためには?」ですが、それは「身のほどを知る」に他ならず、「身のほど」とは「器」なわけです。

「器」にもどってきました。


「器が大きいヒトになるにはどうしたらよいのか?」が、「身のほどを知る」にたどりついたわけです。身のほどが「器」なのであれば、身のほどを知 るとは自身の器を知り、それにふさわしい生活を送るべし、ということになる。
堂々めぐりして、結論としては「器が大きいヒトにな る」ためには「自身の器にふさわしい生活を送るべし」