元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

終わりなき日常を楽しむこと

終わりなき日常を楽しむこと

終わりなき日常を楽しめるヒトと、頑なに楽しめない(「楽しまない」)ヒトとの、「人生」についての考え方の違いは、現代、近未来においては決定的な決裂要因になってゆくような気がします。

戦争でも起こらない限り、この国では「終わりなき日常」は続いていきます。ならば、非日常のイベント性を日常の外に求めるのではなくて、その日常性を楽しもう、という考えにシフトしてゆくのは、私は正論であり、当然の移行だと考えているのですが。。どうやら、全く考え方が違うヒトたちが未だに多いということに、気づいてきました。

非日常というのはその名のとおりで、非日常を継続的に続けようとすればそれは日常になってきます。「非日常的な日常」というのは、刹那的で土台があやういものです。

非常にわかりやすいたとえでいえば、月〜金の仕事では自分をコロして、土日のアソビに全てを賭ける、といったようなことでしょうか。このた とえでいえば、1週間7日のうち、5日はキツいわけです。割合として、単純に考えてキツい人生だと思うのですが。。 こう考えるヒトの人生の5/7は、死んでいるも同然なわけです。

それであれば、自分の人生の5/7をコロしてしまうよりは、その5の「日常」の中のささいなことを楽しみにしよう、とか、仕事がキツいので あれば、仕事の前、あるいは後に、些細な楽しみ(継続できるもの)をセットするとか。。

そういうことを、皆がやれているようでやれていないような気がするのです。


何かに書いてあったとあるヒトのエッセイによれば、その人のおばあさんは、夜ふとんに入るときに「あー極楽極楽」というのが口癖だったそう です。

この方は、毎日眠ることを楽しみにしていたということです。この感覚、考え方は、現代のほとんどの方は理解不能なのでしょうし、私も、読ん だときはピンときませんでしたが、最近になってわかるようになってきました。

ムカシ、特に戦後を生きた方々は、ホントにキツい日常を送ってきたのだと思います。だから、その1日が終わること、つまり、床に入るという 儀式に日常の楽しみを見出していた。

日常の中に楽しみが見あたらなくて、そこに楽しみを「見出さざるをえなかった」というのも、わかるのです。でも、日常の中に継続して楽しめ る小イベントを挿入しておけば、すくなくとも日常が続く間すべてで自分をコロすことはなくなります。

そのおばあさんは、もしかしたら無意識で「夢」をコントロールできたのかもしれない。床に入ってから、またキツい日常が始まる朝までの間だ けでも、楽しい夢想ができたのかもしれません。

日常の中に継続性のある楽しみを見出すことは、終わりなき「キツい」日常が続いていたヒトたち、もちろん、年に数回の旅行などゼッタイにい けなかったような人達の、生きるために智恵ではなかったですか。

これを我々も取り入れなければならない時期にきているのです。我々が感じている「終わりなき日常」は、退屈であるがゆえに少しずつ、真綿で クビを絞めるかのごとく「キツく」なってきているのです。

これは、高度資本主義社会の恩恵を享受している我々に対して試練として与えられた、恩恵の代償なのかもしれません。