元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

町田宗鳳さん(「こころの時代」)

法然を語る 上 (NHKシリーズ NHKこころの時代)

法然を語る 上 (NHKシリーズ NHKこころの時代)

草柳:  つまり今説明してくださった阿頼耶識(あらやしき)―つまり無意識の世界。一番底にある無意識の世界というのは、言ってみれば、そこのところが私たち一人ひとりのあらゆることはそこから起こっている、と。そこが一番大元のところにある、というふうに考えればいいわけですか。
 
町田:  そうです。ある意味では、私たちは無意識のロボットです。無意識に突き動かされて動いているような、自分では判断しているように思っているんですけれども、実際はその判断すら無意識のコントロール下にあるわけですから、これはある意味大変恐ろしい綱渡り的な人生を歩んでいる、ということになりますよね。仏教は必ずしも悲観的な教えを説いているわけではなくって、阿頼耶識(あらやしき)も大円鏡智という悟りの意識に転換できる。転依(てんね)(阿頼耶識(あらやしき)→大円鏡智)と言うんですが、それはその人の生き方、信仰の持ち方、修行の仕方によって、無明の塊である阿頼耶識(あらやしき)も大円鏡智(だいえんきょうち)に大きく円かな鏡の智慧に変わり得る、ということを言っているんです。
 
草柳:  こういう譬え方はどうかと思うんですが、例えば阿頼耶識(あらやしき)というのは自分の中にどうにも手の付けられない暴れ馬を抱えていて、
 
町田:  その通りです。
 
草柳:  だけれども、その暴れ馬はやりようによっては手なずけることができる。
 
町田:  手なずけることは出来ないです。その意識と無意識の関係をよくしてあげる。自然に暴れ馬が穏やかな優しい馬に転換していくチャンスは、自分の意志で作ることができますが、手なずけようとして手なずけられるものではない、と思うんですね。囲いの中に暴れ馬を閉じ込めると、馬は後ろ脚を上げて柵を破ろうとする大変暴力的な存在だけど、その柵を取ってあげて、広い牧場に離した場合、その馬はとっても穏やかに草をはむかも知れない。それと同じことで、私たちは意識と無意識の風通しをよくする。そういう努力をしていくべきだ、と思うんですね。この無意識ですね―普遍無意識、あるいは阿頼耶識(あらやしき)を、現代の言語学者井筒俊彦(いづつとしひこ)(1914-1993)さんという人が、「アンチコスモス」という言葉で表現されたわけです。
 
草柳:  「アンチ」が付いているわけですから、「コスモス」というのはいわば例えば「秩序」とすれば、「無秩序」。
 
町田:  そうです。心のブラックホールですね。私たちは「コスモスの世界、常識的な世界」に今生きて、社会的な判断をして、社会的に責任のある人間として生きているわけですね。ところが私たちの内面にはブラックホール―大変恐ろしいお化け屋敷のような、以前「見るなの座敷」という言葉を遣いましたけれども、見てはいけない座敷のような心の闇を抱えている。「アンチコスモス」というのは、まさにそのように「真っ黒な闇の世界」なんですけれども、それに対してもの凄く私たちは恐怖を持っているわけです。そこには行きたくない、入りたくない、と。もう常識を突き破る世界ですからね。そこに入ってしまえば、一切の良識ある判断ができなくなってしまうわけです。ところが、そういう恐怖を持ちつつ、その一方では、そういうところに飛び込んでしまいたい、何もかも忘れて思いっきり混沌とした世界に飛び込んでしまいたい、と。非合理の世界ですね。「非合理への衝動」と言ってもいいと思うんですが、そういう非合理的な世界に飛び込んでしまいたい、という押さえがたい衝動を持っているのも事実なんですね。もう背広もネクタイも外して、素っ裸になって海の中に飛び込んでしまいたい、と。そう思うのと同じようなもんで、平生真面目な生き方、ほんとに社会的な規律の中で生きている、そういう人間こそ、一層のこそ何もかも忘れてしまいたい、という思いがありますよね。で、井筒さんもそういうことをおっしゃっておりまして、我々はコスモス的な世界に生きている、コスモス的な人間だけれども、アンチコスモス、そこに飛び込んでしまいたい、という思いを持っている。私は日本の「祭り」というのはそういう働きがあると思うんですよ。「ハレの日」と「ケの日」(非日常(特別な日)と日常とを対比させる民俗学の基本的な概念で、ハレは、公のもの、正式なものをさし、今でも晴れ着とは、正式な場に着ていく正装。一方、ケは、漢字では褻と書き、ハレとは反対に公でないもの、正式でないものを意味しており日常、普段のことを表します)という民俗学の言葉がありますが、我々は一年三百六十四日、「ケの日」に非常に世俗的な時間に生きているわけですよね。社会常識を守って。ところが、祭りの日、「ハレの日」は無礼講ですから、何をしても良い、酔っぱらってもよい。場合によっては喧嘩をしても良い、と。そういうアンチコスモスへの衝動をうまく消化したのが日本の祭りのあり方だし、日本のみならず、ブラジルのカーニバルとか、アメリカのマルディ・グラ(Mard Gras:ニューオリンズで開催される全米最大の祭り)というかなり荒っぽい祭りがありますが、そういう宗教儀礼は世界各地にあるんです。それは何かというと、人間の押さえがたいアンチコスモスへの衝動をいい形で消化しているわけですね。その日ばかりは無礼講であると。そして日常のバランスを保ってきたわけですよ。ですから、法然さんというのも、平安末期から鎌倉初期の極めてアンチコスモス的な社会状況に生きていた宗教家ですからね、彼自らがアンチコスモスに飛び込んでいくわけですよ。飛び込んでいって、そこで見つけた教えが「悪人正機説」悪人こそ救われるんである。善人ではない、と。自分の悪人ぶりに気付いた人間こそ、自分に絶望した人間こそ救われていくんだ、と。究極の教えと言いますか、危機的状況だからこそ言えた言葉ですね。これが非常に落ち着いた、安定した社会では、決して受け入れられる言説ではなかったと思います。
 
草柳:  つまりそうやって、いわば混沌というか、アンチコスモスという言葉でしたけれども、そこへ飛び込むことによってバランスを取る、と先ほどおっしゃいましたですね。
 
町田:  ええ。アンチコスモスに行ったきりではダメなんですよ。それでは社会生活が成り立たないわけですから、やはりコスモス的な、常識的な当たり前の世界に戻ってこなければいけないわけで、だから法然さんは「普段の念仏」ということをおっしゃったのも、常に自分の中のアンチコスモスを見つめながら、当たり前の世界で平々凡々に生きましょう、というのが、彼の普段念仏の精神なんです。「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と言って、当たり前の世界を当たり前に生きていきましょう、と。だからいったんアンチコスモスに飛び込んだけれども、ちゃんとコスモスに戻ってくる方法も見せておられるわけですね。「往相回向(おうそうえこう)」と「還相回向(げんそうえこう)」と二つある。そういうふうに仏教ではいうんですが、お念仏の中に両方入っていると思います。自分の無明を見つめるけれども、煩悩を見つめるけれども、お念仏によって浄土の世界に救われる、というのは、要するにコスモスの世界にちゃんと辿り着きますよ、ということなんですね。その辺に法然さんのかなり近代的な合理精神があると思うんですよ。だから彼が当初、今までのようにお寺に供養するとか、仏典を読むとか、そういう形式的な善根功徳を積んでも意味がないというのはそこなんですよ。自分の決断力一つだと。もう経済力とか教養の深さとか、あるいは人生体験の豊かさとか、倫理的なその人の資質とか、そういうものは一切関係ないというわけですよ。そういう条件付けは要らないと。ただ自分の醜さ弱さ悲しさ、あるいは寂しさ、そういうものをしっかり見つめたうえで、そこから弥陀の光を見出していこう、と。それをするかしないかは、あなた次第ですよ、というかなり個人主義的な思想ですね、彼の専修念仏は。いわゆる西洋哲学では、「近代哲学の父」と言われているデカルトが、「われ思う、ゆえにわれあり」と。信仰よりも自分の知性・理性を尊重して、そこで判断していくことが大切なんだ、ということを言ったのがデカルトなんですが、ある意味法然さんというのは、「近代日本の父」と言ってもいいぐらい、相当個人主義的で合理主義的な判断力を持った人ですね。リアリストなんです。現実主義者ですから、目の前に大変な状況が出来(しゅったい)している。社会状況―もう手も付けられないぐらい絶望的な状況である。ここで綺麗事を言ってもすまない。ここで建前を言ってもすまないと。じゃ、人がこういう状況で救われるにはどうしたら良いかと。非常に現実主義者としてシビアな目で目の前を見ているわけです。そこで、じゃ、もう修行も要らない、お経も読まなくていい、何かいいこともしなくていい、ただひたすらナムアミダブツを称えなさいと。自分の弱さ無明を見つめて一心にナムアミダブツを称えることによって摂取不捨(せっしゅふしゃ)ですね、根こそぎ十人が十人、百人が百人救われていくんだ、ということを敢然として言い切った人なんですよ。