元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

現代社会で「遮断」できないもの

現代社会で「遮断」できないもの
今の僕にとっては、加工食品や添加物を摂取することとテレビからマスコミの情報を「摂取」するのとは同じ位置づけにありますね。

どちらも、この現代社会では完全に遮断することはできない、という点で大きな共通項がある、というのもありますし。。

どちらも「有害」であると断定しているというのもあります。

そして、テレビ、マスコミの情報を僕がほぼほぼ遮断できるようになるまでにどれぐらいの年月がかかったことか。。

この長い道のりを考えると、加工食品やら添加物をほぼ遮断できるようになるまでの道のりははじまったばかりです。これから長い長い「闘い」 になることが予見できます。


都市に生きる人間はカンゼンなる隠遁はできません。なぜなら、都市生活を享受する代償を背負わなければならないからです。

そして、都市生活でカンゼンなる隠遁を追い求めることはイコール「修行」です。(かつ、ある程度は文化的な生活を営みながら、という前提)

この日記のタイトルに使っている「毛坊主」とはそういうことです。

「俗世間」でいかにあがくか。俗世間とは、スポーツでいう「空気抵抗」のようなものです。負荷が高い状況に身をおくことにより自身のスキル が高まってゆくことを実感できます。

「入廛垂手」というのもそういうことだと思います。山で悟りを開いた坊主は、麓におりてきてふらふら、飄々としているように見える。そして 実は、そうでなくてはならない。逆に、坊主は麓で生産的なことをしてはならないぐらいなのです。

宗教法人であることを利用して、不動産に手を出す寺院などがありますが。。

そもそも、麓では、俗世間にまみれていては悟れないのです。現代社会で、「麓」で仏教に携わっているヒトたちは非常に怪しい。彼らはほぼ 100%、「ビジネスマン」であるといってよいでしょう。