元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「根源的な闇」はみえたか?

【重 要】「根源的な闇」はみえたか?

これはもう、僕の中では「古典」なのですね。再再録ぐらいでしょうか。
(以下、再録)

自分の意識の表層にある怒り、違和感、世の中に対する不満、などな ど、ココロ の中にその「思い」あるいは「思考」がどんどん溜め込まれてゆくわけです。その数ははっきりいって尋常ではありません。もしかしたら他人 よりも多いかもし れない。もともと感受性が鋭いわけでもないのに。。
それらをどんどん書き出し(吐き出し?)て、それらをすべて取っ払っ た後に、「根源的な闇のようなもの」(by村上春樹)が残り、さらにその闇の向こうには「何か」があるに違いない、と今、信じて「書き出 し」を実践しているわけです。
それは現在、ライフワークに近いものなので、早々に結論がでるもので はないのですが、最近ふたつ、考えたことがあります。
ひとつは、その「書き出し」をしているときに、何か「奥底」がちらっ と見えた、あるいは「タッチした」ような感覚を持つことがあります。
これは、書き出しの最中に「疾走感」を感じることができているとき に、現出します。そしてその瞬間の書き出しの1フレーズだけが、自画自賛できるものだったりしますね。(膨大に書き出しているのに、たっ た1フレーズだけ!)
優秀なモノ書き屋さんというのは、このあたりの「感覚」をコントロー ルできるのかもしれません。だとしたらスゴいですね。
この、瞬間的に「タッチした」と感じられる「地点」、これが「根源的 な闇」の入り口なのかもしれません。つまり、その「地点」だけを疾走感を感じながら書き出していると、いつの間にか、ものすごく深く「掘 れる」わけですね? だから「奥底」が見える(ことがある)。
これはまさに河合隼雄さんの言う「井戸掘り」ではないでしょうか。
私の理想は、表面上の土の層をすべて取っ払って、根源的な闇をむき出 しにすることなのですが、それは、まず、できるかどうかすらわからない。現時点では、たまに、ピンポイントで深く掘れる(偶然、掘れてし まう)ことがあります。
それだけでもまあよしとしましょうか、と。。

続きです。
もうひとつは、まだうまく説明はできないかもしれないのですが、とに かく「夢」を活用しないとダメなんだろうなあ、ということです。
夢に対する「回路」はオープンにしているつもりなのですが、今のとこ ろ全然ダメです。朝起きてもゼンゼンおぼえていないし。。ちょっとしたコツというか、技術が必要なのでしょうね。
ところで、「夢」とはなんでしょうか? と、いうことを、たまに考え ます。
自分の意識下にはすでにいくつか(あるいはひとつ)の「井戸」がデ フォルトで 掘られていて、眠るとヒトはそこにアクセスすることができる。ヒトは、眠りについた後に、カンタンに井戸にもぐり込み、「根源的な闇」の 向こう側を垣間見 ることができる。(起きているときは、井戸を「のぞき込む」ことしかできないのに。。)
その垣間見た結果が、夢なのでしょう。
夢の中は果たしてパラレルワールドなのか否か。それはもう、高校生の 頃から考えていることで、未だわかっておりませんが。。
夢を見る、ということは人間に必須な機能なはずで、あえて睡眠とセッ トになっていることは、事実上間違いないわけですね。
ヒトは、睡眠をとらなければならない、のと同じように夢も「見なけれ ばならない」のです。
なぜヒトが眠る&夢を見るのかといえば、生物学上の意味合いでの脳の 休息以外に、一般的にいわれていることは、思考の整理のため、ですよね。勉強していて、煮詰まってしまったらいっそのこと寝てしまったほ うが考えがスッキリする、というのはよくいわれるハナシです。
思考を整理するための夢なのであれば、なぜ夢というのは「映像」でな ければならないのか?
なぜ、「根源的な闇」の向こうの「映像」を自身に再投影して、半強制 的に自身に「見させる」必要があるのか?
ここに意味は、あるのです。あるからこそ、「映像」を自身に見せてい るわけで。。
そして、夢分析とか、よくありますけども、ホントウは夢というのは自 身に再投影して完結するものであって、それに対して分析を加える性質のものではありません。
夢分析は血液型とか占星術とか、そういうのと似ていますね。
自身が見た夢を、そういう分析本と照合して誤った解釈をしてしま う。。それをやってしまうと、「根源的な闇」から再投影した意味がなくなってしまうのです。まァ「ブチ壊し」ということです。
夢は、「みた」で終わらせておけばいいのです。ですが。。ヘンな分析 を加えるのはよくないのですが、まずは、おぼえておかなければならないと思うのです。
私はおそらく河合隼雄さんの影響を多大に受けていますが、彼の教えで 重要なのは、夢は予知夢であると思ってはいけない、というところですね。もちろん、前述したように、自身がうかつに分析をしてはならな い、というのは大前提としてあります。
他人が、客観的に分析をするのであればよいのです ただし、その過程 で本人にはゼッタイに分析した見解を述べてはならない。
夢は「結果」であって、それは、「あー、そうなんだー」という感じで あたかもエンターテインメントのように楽しめば、それで十分なのです。素直に受け入れることにより、身体に「しみ込んでいく」といいます か。。
それが、自身をつかさどる「脳」が自身にあえて夢を見させる目的なわ けですから。
夢に対して感情を殺せ、といっているわけではありません。夢を見て、 感じるも のはありますよね? それは、素直に感じたままにしておけばいいのです。そこでうかつに、「あー、そういえばあの本には、空を飛ぶ夢は逃 避願望をあらわし ている、って書いてあったなあ」などと、余計な引用をいれないこと。
空を飛ぶ夢を見たときに、逃避願望が顕在化する、ということではない のです。ヒトには必ず逃避願望があるのです。同じように、無限に願望を持っているのです。それはあたりまえのことです。
空を飛ぶ夢であれば、爽快感とか、恐怖感とか、疾走感とか、いろいろ 感じているわけですよね? それを大事にするのです。「楽しかったなあ」とか「怖かったなあ」とか。。
夢の中には、たまたま、結果的に予知夢的なことは起こりうるかもしれ ません。 でもそれは、切り株の前で居眠りしていたらたまたまウサギが走ってきて株にぶつかって死んでしまい、その日は豪華にウサギの肉を食べるこ とができました、 というハナシと同じです。たまたま、なんです。
翌日からそれに味をしめて、ずーっと切り株の前で待っていましたが、 二度とそこに動物がぶつかることはありませんでした。。 というオチです。
もう獲物はあらわれない、と思っていると忘れたころに現れたりします けどね。。そこがムズカしいところですが。。 夢も同じです。
エンターテインメントで思い出しましたが、夢というのは楽しいのとか 悲しいの とか殺されるとか、いろいろありますよね? 夢は自身の現実のイベントを「ある程度」投影するわけですし、それを毎日夜に見るわけですか ら、一生続く、自 分だけの「レイトショー」だと考えておけばいいのです。
一生続くのですから、レイトショーを楽しみにしたいのであれば(毎日 毎日自身 が殺されたくはないでしょう?)、リアル社会でもポジティブシンキングでいることです。そうすれば、それがある程度夢として自身に再投影 されるわけですか ら、夢も少しずつポジティブになり、夜が楽しくなり、ますます自分の生活も豊かになり。。と、人生が好循環してゆきます。