元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「仕事をくれてありがとう」と感謝できるか

「仕事をくれてありがとう」と感謝できるか

以前、掃き掃除の効用について何度か書きました。たとえば落ち葉掃除をするときに、葉が落ちてくること自体に感謝しなければならない、といったようなことです。
それに対してうっすらと反応がありまして。。
ああ、そんなことを書いたなあ、とあらためて思い返してみたのですが。
つまりは、「仕事をくれてありがとう」と感謝できるか? ということが試されています。
(仕事というものはおおよそツラいものです)
落ち葉の掃き掃除も立派な仕事です。毎日毎朝、起きてとある場所に行くと、あいも変わらず落ち葉(そしてゴミ)が落ちています。
その事実に対してうんざりしないこと。「ああ、これが死ぬまで続くのか?」と思わないこと。(先日も似たようなことを書きましたね)
「落ち葉があるから自分は掃除をすることができる」と思う。
カネをもらえる仕事であれば、それにありつけることに感謝の気持ちを持つことは(建前上は)当然です。それにより家族を養うことができるのですから。
僕の「落ち葉掃除」は誰にもおカネをもらえませんが、毎日毎日「課」が発生することに感謝はしています。
これも以前書きましたが、自分のルーティンにダイナミズムが生まれることにより「感謝」という気持ちが起動します。そこまではけっこうキツい日々が続きますが、折れないことが大事です。
とかく現代社会というのは、感謝の気持ちというのはどうも、カネをもらえる仕事のほうがもちずらいようですが、それはなぜなのでしょう?
ビジネスも、仕事をしてくれてありがとう(だからおカネをわたします)という側と仕事をいただいてありがとうという側がうまく協調してやってゆければよいと思うのですが。
僕は個人的には、仕事を渡す側が高飛車すぎたと思うのです。それで仕事を受ける側が卑屈になってしまった。。
も少しこのことは考えていかなければなりませんね。