元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

世界は自分を中心に。。のハナシ

世界はオマエを中心にまわっているのか?と問われたら、ある意味でイエスです。なぜ世界が、自分以外の何かを軸にしてまわっている、と考えることができるのか? というのが逆に不思議なのです。
それが、日本人特有の「奥ゆかしさ」に起因するのであればまだよいのでしょうが、それは単に、「自分」をしっかり持てていないだけではないのか?と。
「世界はオマエを中心にまわっているのか?」と私に問うているヒトは、これは批判ですね。もっと謙虚になれ、と。
そしてこのコトバは、「出る杭」を打つときによく聞かれるコトバだともいえます。
自分は、なるべく世間、ヒトサマの迷惑にならないように「横超」をしようと考えているのですが、それでも「世界はオマエを中心にまわっているのか?」という批判は、くる。
ということは、まさに何かを越えよう、というときは、謙虚でいようが傲慢だろうが、常に「出る杭」になってしまうということでしょう。

ところで、なぜ「ある意味」でイエスか、といいますと。。
世界は確かに「私」を中心にまわっているのですが、それは「自己中心的」という意味合いではないのです。
私は、私自身が見、感じている「世界」しか知りません。ですので、「私の世界」というものは自分との関係性以外には存在しえないのです。
ここでほとんどの人間は、「私の世界」に、他人が存する、と考えてしまいがちなわけです。これがすなわち自己中心的だと思うのですが。。
私は、ヒトそれぞれの「世界」がパラレルで存在する、ということを理解しています。すなわち、私も自己中心的であり、隣人も自己中心的である。自己中心的というのは平行に存することができ、あえてぶつからなくとも生きてゆける。
地球が太陽をまわっている、というのは自然科学の分野ではほぼ間違いないのでしょう。
今、この瞬間にも世界のどこかでは内戦により誰かが殺されているのかもしれない。
それらを別に信じていないわけではない。でもそれらは、たまたま、私と「世界」との関係性の中には現出していない。
(テレビの中に見えているじゃないか、という意見がもしあるのだとしたら、それこそヘリクツでしょう テレビの中というのは、自分たちが親しんできた「本の中のおとぎ話」と似たようなものです)
好奇心によって、それらを見に行くことにより、はじめてその光景がリアルにそのヒトの世界に現出するのかもしれませんが、そのときに自分と世界との関係性が侵されることはないし、特にその必要はない。隣人が感じる「世界」つまりリアリティにある種劇的な変化が生じたとしても、それは自分の世界には影響しないはずです。
ただし、親兄弟とか、近しい知人とか、「隣人」を超えてシンクロしあっているヒト同士では、世界との関係性も一部シンクロしているわけですから、そこで共通の影響というのは、出てきますね。
ですが、別に親しくもない他人の世界と、いちいちシンクロしていては、疲れてしまいます。誰彼かまわずやっていると、ときおり負のバイブレーションが紛れ込むこともありますし。。
それは余計な負荷になります。

結局、自分が存する世界「とやら」は、自分中心にまわる他ないのです。
世界が自分を中心にまわっている、とココロの中で考えている人間が、イコール世間一般でいう自己中心的であるとは限らない。
なぜならそれは、アタリマエのことなのですから。
さっき書きましたが、自己中心的とは、自分以外の世界を(なぜか)認めずに、他人がすべて自分の世界に入り込んでいると考えてしまう(しまえる?)ヒトのことです。

「自己中心的」でないヒトというのは、誰かの強烈な世界といつもシンクロしたがっているのでしょうね。
強烈であれば誰でもかまわない、というのが、問題なのです。
そして、フシギなことに、世間一般でいう自己中心的であるヒトほど、
自分よりも強烈な「自己中心的」になびいてしまう、という。。 自分の「殻」を取り替えるがごとく。