元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

根源的な闇と物語

根源的な闇と物語

「物語」を「根源的な闇」から取り出すというハナシ。。 ここ1ヶ月ぐらいずっと自分のメイントピックのひとつとしてあり続けていますね。

神話なり民間伝承なりが、はるか遠い国と類似性が見られる、という事実について。

国土、気候、文化、言語などが違うにも関わらず「物語」が似てくるということ。

ということは、その「物語」は同じ「ところ」からやってきたという結論に達しても何ら不思議はありません。それは「時空」を超えたどこか。

そこはどこか、といえば、おおよそ、意識の下の、無意識のさらに下あたり、と言われており、自分は村上春樹氏のパクりでそこを「根源的な闇」と呼んでいます。仏教的にはアラヤ識とか呼ぶのかもしれませんが。。自分は「闇」のほうが好きです。

その闇は、人類に共通の「ところ」であって、世界中の誰もが、どこからでも、どこまでも「降りて」さえゆけば、たどりつくことができる共通の「スペース」(?)ですが、ここにたどりつける人間はどうやら限られているようです。

「ここ」にはおそらく、昨今「DNAの記憶」などと言われているモノが、イメージとしてうごめいているのだと推測されます。誰かが書いていましたが、「ここ」は静的に存在しているのではなくて、常にイメージが湧き出ている泉のようなところらしい。

そこまで「降りて」いけたもの限定ですが、そこからはあらゆるイメージを得ることができ、そこから「戻ってきた」人間は、その国の言葉でイメージを伝承してゆきます。ムカシは「そこ」に降りていきやすかったのか、そうでなかったのか、それはわかりませんが、とにかく降りてゆくのは祈祷師のような選ばれたヒトであったことは間違いないでしょう。

そして、各国で少しずつ伝承の内容が異なってくるというのは、やはりその国、地域の文化のフィルターを通過せざるを得ないからでしょうね。

たとえば犬の鳴き声を日本では「ワン」と感じるのに英語圏では"bowwow"と感じるがごとく。。(違うかな)

河合隼雄さんは、源氏物語の頃はそれはもうふつうに、霊的なモノは生活に溶け込んでいたはずだ、と書かれています。古典における霊的描写はおそらく書いた人間にとっては「リアル」だったのであろう、と。

自分もそうだと思います。