元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

写経はできるけど物語は書けない

写経はできるけど物語は書けない
結局、物語を紡ぐことができる人間は限られている、ということです。それは、わかってはいるのですが。。

集団のトップになるべき人間と同様、そういうヒトも選ばれたヒトであることは間違いないのです。

「物語を紡ぐ」とはきわめて広義の解釈をしています。つまりは芸術的創造的であれば手段はとわない、ということです。

今、ちょっと考えてみるだけでも、演劇であったり、小説、絵などのアートもそうですし、建築、音楽、映画、そしてスポーツもそうです。

と、書いてきて、わからなくなってきましたが。。たとえば劇であれば、脚本を書くヒトもその劇中で演技をする個人個人であっても、物語を内包することができます。

物語を紡ぐ真似事は、誰にでもできます。これが大問題でして。。

残念なことに、その真似事によってつくられた偽物語により、一定の人数を感動させることはできてしまうのです。それは、世の中が真似事になってきているからです。(オタキング岡田氏のいう「クリエイティビティの消滅」とはこれでしょう)

と、いうことは、真に物語を紡げるヒトの、つくった物語によって感動するヒトの数より、偽物語のほうが数は多いのかもしれません。これが、問題なのですね。

「プロとアマの境界線があいまいになってきている」というコトバを援用はできますが、ちょっと違う。

真に物語を紡げるヒトは、もしかしたらアマチュアのほうが多いのかもしれないのです。大衆受けしないがために下野せざるを得ないというか。。

ホンモノがどんどん埋もれてしまうのですね。この国では。それが、残念でなりません。

ですから、とある物語があったとして、それがどのぐらいの数の人間を満足、感動させることができるか、と、定量的な尺度ではかってはいけないのだと思います。

前にも書きましたが、物語を紡ぐというのは、技術によってほとんどカバーできてしまうのです。

ということは、物語を紡ぎたいという衝動がないヒトも物語をつくることができてしまう。そしてそういうヒトが紡いだ物語のほうが大衆受けするという。。

もちろん、真の物語で大衆受けしているものもたくさんあるのでしょう。

でも現時点でとりうるスタンスとして、大衆受けしている「物語」はニセモノである、と考えておいたほうがまだ正しいのではないでしょうか。(【重要】マーク)

物語を「紡げる」ヒトと、集団のトップに「立てる」ヒト。

物語を「紡ごうとする」ヒトと、集団のトップに「立とうとする」ヒト。

物語を「紡ぐ」ヒトと、集団のトップに「立つ」ヒト。

これらのラインナップは、それぞれ違うのですね。

「紡げる」ヒト、「立てる」ヒトが、実際に紡いだり立ったりするとは限らない。いや、少なくなってきているのではないでしょうか?

これが、私の現代社会に対する不満というか。。

いっそのこと、なるべきヒトをとある国家機構が探し出してきて、育てて、ならせてほしいですね。立候補制ではなくて。

だから、政治の世界が酷い状況になっているのです。