山本七平×岸田秀対談
とにかく我々は「水を差し」続けないとダメなのです。嫌われてもよいのです。常にマスコミに洗脳され、迎合しているようでは水を差し続けることもできないし「嫌われてもよい」という覚悟もできない。
そういう覚悟をもっている人たちの連帯がほしいところです。
(原発問題についてマスコミが「大本営発表」になりさがってきていることについて、警告したいという思いから、再録してみました)
- 作者: 岸田秀,山本七平
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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「岸田 昔でいえば切腹。最大の苦痛を伴う死に方をすることによって、誠意なり怨みなりを伝える。(略)日本文化のなかでは、周囲もこれを評価するわけです。」
「山本 (略)そういう話は日本人にとってまことに納得しやすいんだな。この、思いつめるという形は、現代でいうと、公害反対運動にも現れていますね。怨念であって、また、被害者が加害者を罰するという形態になる。
岸田 (略)日本の規範は人間関係ですから、他人に軽蔑されるとか恨まれるという以外にブレーキがない。だから「怨」は相手の行動に対する最大のブレーキなんですね。」
「岸田 (略)日本人同士はよくわかるんです。しかし、これを外国との戦争に持ち込んでも、全く意味をなさない。(略)
そもそも、この「思いつめる」というのは、きわめて幼児的な行動でしてね、おもちゃ屋の前でダダをこねて動かないのと同じです。おもちゃが必要なことを論証するのではなく、思いつめを表示してなくわけだ。これは「甘え」です。もちろん、「甘え」がすべていけないというわけではありませんが、「甘え」が通用する相手と状況の限界を心得なければね、
山本 しかし、戦後、これはますますひどくなっているんじゃないかな。何かを買ってもらえないから自殺したという子供まで出てきた。問題は、この「思いつめ」に対してどうすればいいかということですね、日本的制御法はなにか。
岸田 ないはずはないですね。いかなる文化でも、何らかの歯止めがなければ、存続し得なかったはずですから。
山本 ええ。一つは「水を差す」という方法があります。「空気」が出てきたら「水」を差す。(略)ダダをこねる子には「そんなこと言ったっていま金がない」と。同じパターンで、太平洋戦争が始まろうとする時にも、思いつめた「空気」に対して、「そんなこと言っても石油がないよ」と水を差すことはできたわけです。すると、一挙にさめる。そうなっちゃ困るというので言論統制がはじまるんですね。
岸田 (略)日本にだって昔から「腹がへっては戦さはできぬ」というちゃんとした戒めがあるんですよね。それを当時の「空気」は簡単に無視しちゃった。
山本 つまり、「水」をぜんぶ封じておいて「空気」をつくっていくわけです。連合赤軍にしても、まず、絶対に水を差されない状態に自己を置いて、つぎに、水を差しそうな者をつぎつぎに封じていったでしょう。
ただね、水を差すのは制御装置としては効果はあるけれども、これはあくまで論争ではないから次にどうすべきかの指針はでてこない。また別の「空気」ができるだけなんです。そして、あいつは年中ひとの言うことに水を差す、といって嫌われる。だいたい日本人は、将来に仮説をつくって対策を考えておくことが大変きらいなんです。太平洋戦争に負けたときの対策というものは考えない。
岸田 負けたときのことなんか考えたら、本当に負けちゃうという発想ですよ。
山本 そういう奴がいるから負けるんだ、と。いわば敗北主義者ということですね。