元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

幸せの尺度

2008-04-18 幸せの尺度

人生の評価、幸せだったかどうかの尺度というのは、ほとんど、どれほどの質で仕事したか、に尽きます。

なぜならば、ヒトは仕事する義務があるからです。仕事しないで生き通すことができた人間が、いるのだとしたら、不幸です。

もちろん、仕事とは、一般的な、どこかに勤務して一月ごとに給料が支払われる、という形態だけではありません。

家事労働ももちろんそうですし、坊さんが寺の前を掃いたり廊下を雑巾で拭いたりするのも仕事。

どれほどの質か、というのはもしかしたらどれほどヒトの役にたったか、なのかもしれない、と最近思うようなってきています。

けれども、それを全面的に信用しているわけではないです。「ヒトの役に立つ仕事」というキャッチはなんとなくウサンクサい。それは「ボランティア」というコトバにウサンクサさが常につきまとうのと同じ。

ヒトの役に立つ、というのは「たくさんのヒトに」でなくともよいようです。人数は必ずしも評価の尺度ではない。要はどれだけ「深く」誰かの役に立ったかであって、それは一人でもいいのでしょう。

ヒトの役に立つ仕事をするのはもちろんのこと、かつ、それなりにカネをもらえれば、それはとてもよいことです。なぜなら、カネをもらえればとりあえず家族の役には立つからです。

その次の段階は、ヒトの役に立つ仕事をして、それなりにカネをもらって、カネはほとんど家にいれて、自分はどれだけカネという存在から自由になれるか、というあたりです。

カネを儲ければ儲けるほどカネから自由になれる可能性が高まるということ。

これだ。。これも人生の評価の尺度ですね。いかに質の高い仕事をし、そして、いかにカネから自由になれるか。

カネを儲ければ儲けるほどますますカネに執着していく人間は幸せではないのでしょう。でも、ほとんどの庶民はそうなってしまうのだろうと思います。

ところで、カネを儲けている、という時点でものすごく選抜されているわけですが、そこからいかに、儲けたカネを家族なり、親類なり、ごくごく近しいヒトに託してしまえるか。

また、いかに自分が質素で(かつ「上品」な)生活を継続できるか。

というステージまで上り詰めるのはホント、難儀ですね。。たぶん僕もほとんどできないとは思います。けどそこまでいきたいという希望はもっている。