元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。(略)僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになれます。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずる近づいているんだ」と思えばいいんです。
僕は小説を書き始めて二十五年になるけど、そのあいだに自分の小説の独自のスタイルを作っていって、そして自分の生活のスタイルをかなりきちんと守って、とにかく自分のやりたいことだけを、自分がやりたいようにやってきたわけです。マラソンでいえば、第一集団はどうぞお先へ行ってください、自分のペースで好きに走りますから、というふうにやってきたんだけど、いつの間にか「何がメインストリームか」というコンセンサスが世の中になくなってきたみたいなところがあります。良くも悪くも。だからそのぶん僕としても、心ならずもかなりの風圧を意識せざるを得なくなりました。なかなか単純にはマイペースでやっていられない。(略)でもね、最近になって、いろんな意味で「どうでもいいや」と思えるようになりました。僕は特別に正誤をただしておかなければならない場合を別にして、これまでほとんど誰の個人的悪口も言ってないし、誰の足もひっぱってないし、私ごとについては何を言われてもおおむね我慢して口を閉ざしてきたんだけど、まあそれでよかったんだろうなと。