元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

散歩論

局所的なところ、場所、モノやコトの一部、カケラ、などから「無限」を感じることができるか? というのが(おそらく)僕の散歩のテーマであり。。

それは、禅の「一即多 多即一」につながってくると思います。だから、僕の考え方と禅とは親和性があるはず、と勝手に考えているわけでして。

禅などをひきつけて考えはじめたのはつい、最近なのです。でもそこまでもずーっと考えてはいました、いろいろなことを。

2006年頃は、やたらと海外旅行(「外」)へ出てゆく人間を、散歩人としてやたらと批判していました。
海外旅行により外に視野が広がるのかもしれないが、散歩(「内」)により日本の路地裏に無限を感じることができるのだ! などなど。。

最近は観光旅行も許容しています。
でもそれは、たとえば海外旅行VS散歩などといった不毛な二元論を否定するようになったからでして。。
確かに、なんでもかんでも二元論に落とし込めば、わかりやすいというのはあるのですが。

内側だろうが外側だろうが、家の外に出て自分が何を吸収し、肥やしにしてゆくか、というのは結局自分の器次第なのです。

内側という意味では、近所の散歩は実は内側ではなく、自分の深層意識のところへ降りてゆくことがホントウの内側なのかもしれません。
ということは、たとえば物理的に外を出ずとも、座禅により自分の肥やしにすることもできるわけですね。