元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

苦しかった出来事に感謝できるか

僕は、人生の様々な局面において、いろいろと苦しい出来事がありました。といいますか、あったような気がします。

その、苦しい出来事に対して常に感謝を捧げるほどの度量は持ち合わせていなかったし、おそらく今でも持ち合わせていません。

ですが、僕が幸いだったと思うのは、どのような状況にあっても常に淡々と生きていた(生きれた)ということです。
少なくとも外面的には。。
他人からは、「動じない」「飄々としている」という評価を、いただいているようです。

でも内情は、激烈たる揺れ動きがあったのだと思います。(まるで他人事のようですが)

正直、あまりおぼえていませんが。。(苦しいときに「蓋をする」ことができるようなので)
でも結局淡々と生きてきましたし、今でも生きていますし、これからもこのまま生きてゆくのだと思いますし、それでいいかなと思っています。
それが僕の「性質」なのかな、と。


苦しかった出来事が過去となり、笑って振り返るときに初めて感謝の念が起こります。僕の場合は、感謝の念が起こるまでにそのぐらいの期間が必要だということです。

振り返るときがくるまではムリであり、その振り返る時期というのは、僕の中の何か(無意識下?)が決めます。
とある出来事に対して、ふと(突然)振り返りたくなるときがきたりします。
そして、また別のとある出来事については、僕の中からいつまでもいつまでも立ち上がってきません。それは、振り返りたくない出来事なのでしょう。そうであればただ、放っておけばよい。

自分の中での過去の出来事の「清算」「総括」は、自分自身が、自分の気付いていないところ(それが「ココロ」?)でやってくれています。そして、その自分を信頼しています。



結局、何か「苦行」的な出来事が発生したときに、僕は即その出来事に対して感謝することができないわけで。。
今ふうのコトバでいえば、一旦「ブチキレ」た後に反省をし、それがやがて忘却の彼方へ去って無意識下に沈殿してしばらく時間をおかなければなりません。

結論としては、そういう意味で自分はまだまだであろう、ということです。