元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

反論なのか、何なのか。。(中谷彰宏さん)

とあるメルマガにて、この文章を見ました。

(引用開始)

      • 人間の人生は、他人の人生として始まります。親のために生き、先生のために生き、上司のために生き、妻のために生き、子供のために生き、世間のために生きるのです。ほとんどの人は、他人のために生きて、生涯を終えます。他人の人生は、何十年生きてもあなた自身の人生としては、ゼロです。誰かのために生きることをやめて、自分のために生き始めた時から、初めて、あなた自身の人生が始まるのです。
      • −作家・エッセイスト 中谷彰宏


まず、この中谷彰宏さんという方が何者なのか。。よく存じませんが。。

なんだか、「自分」「自分」とウルサいように思えます。

他人のために生き「抜く」人生を真っ向から否定しているように思えます。それは、なぜダメなのでしょう?


僕は、自分がやりきれるかどうかは別として、人生は利他的に生きるべきだと思うし、そこから豊かな生活が生まれてくると思っています。

そして、「自分のために生き始める」とは、それは、イコール「自己中心的になる」ということなのだろうか? と考えてしまいます。

自己中心的な人生は決して、豊かにはなりません。
ので、もし中谷さんが、「自己中心的に生きることにより豊かになれる」と考えているのだとしたら、僕の意見とは真っ向対立することになります。


それにしても、すごく、昨今の「自分探し」がお得意な若い世代に、受入れられそうな言説。。(それを狙っているのでしょう)

「そうか! 自分のために生きていいんだ!」という気付きは、つまりは「ワガママになっていいんだ!」と解釈しますよね、凡人は。

奥さんは、コドモをおいて家出してよいのでしょうか? 旦那は、家にカネを入れるのをやめてもいいのでしょうか? コドモは、勝手にグレてもよいのでしょうか?
僕が考える自己中心的というのはそういうことですが、これを無条件で認めるのでしょうか?


この方がおっしゃりたいのは、まず、我慢をやめようということだと理解していますが、他人のために生きる人生で我慢している感じを滅することができれば、それでいいのですよね??

他人のために生きる人生がすなわち「我慢」であり、他人のために生きている最中に、それを継続しながら「我慢」を軽減する努力もせずに、結局「やーめた」と放り出すことにより我慢を解消しようとするヒト(放り出すという短絡的手段しか思いつかないヒト)は、自分の人生においても「我慢」を軽減することができず、自分の人生すらも「やーめた」と放り出すことになるのでしょう。

そういうヒトが今後ますます増えてゆくのかと思うと、末恐ろしくなってきますが。。
自分はそうなるまいと強く思いますし、自分のコドモたちにはゼッタイにそういう人間にはさせるまいという思いを新たにしています。