元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

カツ丼(取調べ室における?)

たとえば僕は、カツ丼がすごく好きで、それを渇望しているわけですね。
いえ、毎日ではないのですが、たまにすごく、食べたくなるときがあります。

カツ丼というのは1500円弱ぐらいだと思いますが、そのぐらいの額であればいつでも食べれるはずです。でも、僕は「ほぼほぼベジタリアン」ですので。。


「カツ丼食べたいなあ」はとても健全だと思うのです。一般男子として。
お腹がすいたときに1万円のフランス料理のコースを思い浮かぶようでは、まったく健全ではないでしょう。

それと、僕は、カツ丼であれば何でもよいのですが、グルメぶる方々がいらっしゃいますね。「○×のカツ丼じゃなきゃダメだ」みたいな。。
その「グルメぶり」も健全とはいえません。


でも、だからといって毎日毎日アタマにカツ丼が思い浮かんで仕事も手につかないようでは、ダメなのだと思います。

「たかが」カツ丼に自分が支配されてしまうようでは。。
代わりに、カツ丼なんかどうでもよいぐらいに熱中できる仕事なり、作業なりがあればいいわけです。


僕は完全なるベジタリアンではないので、数ヶ月に一度、渇望しているカツ丼を食べます。
そのときに、感謝できればそれでいいのです。自分が、たまにとんかつ屋さんに家族といって、カツ丼を食べることができる幸せとか、カツ丼がおいしく食べれるぐらい健康であることとか。

おかげさまで、そのときはとても幸せな気分になれます。


現代社会、特に都市における食生活(肉中心)では、食べ物に感謝するというのはムズカしいのでしょう。