元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

メモの極意

メモの極意。。 僭越ながらだいぶわかってきました。


歩いているとき、掃除しているとき、そして特に、手が離せないときに限って、ふっとアイディアが思い浮かびますね。

「手が離せないときに限って」というのが、非常に不思議なのですが。

なぜ思い浮かぶのか? といえばそれはおそらく「啓示」なのです。
相手は、「神」なのかわかりませんが。。神でも神でなくとも、どちらでもよいのですが、とにかく、超越的なものです。

ということは、この「啓示」は相当大事にしなければなりません。ないがしろにしては、いけないのです。

神、あるいは超越的な存在は、そこで、我々に「立ち止まること」を要求しています。
立ち止まって、メモをとりなさい、と。
そして、そういう啓示がきたことを感謝しなさい、と。

それは、一種の修行ですね。。
何か、手の離せないことをしていても、それが自分にとって重要なことであっても、「啓示」というのはそれよりも大事なことなのだ!と。

たとえばクルマの運転中であれば、「啓示」があればクルマを停車してメモらなければならない。
たとえば、どれほど、取引先との重要な用事で急いでいたのだとしても。。

立ち止まれるか? を、試されています。

立ち止まって、メモをとって感謝することにより、必ず良いことが起こると思います。
我々がわからなければならないのは、「悪いことが起こらない」というのは非常に良いことであるということです。


アイディアというのは、思い浮かぶのはよいのですが、なぜ、すぐに忘れてしまうのか?
なぜ、啓示をメモするチャンスは短いのか? 後でメモしておけばいいや、と思っているとほぼ100%忘却してしまうのは、なぜなのか?

これも、修行ですよね。。



何か啓示を受けて、それを片手間で、フレーズだけメモをとったとしても、それを後で読み返しても、何のことだかわかりません。

しつこいですが立ち止まらなければならない。
思い浮かぶのは、ある程度まとまった文章です。数センテンスの文章が一瞬でぱっと思い浮かぶ。そして、それはすぐどこかへいってしまう。。

立ち止まって、「文章」をメモしておかなければならない。


そして、書いたことは読み返さなければなりません。
せっかくの「啓示」を放置しておいてはダメです。読み返して、考えましょう。


余談ですが、よく新興宗教の教祖が「神の啓示を受けた」といいますね。寝ているときに、「神の代わりにオマエが立てといわれた」とかなんとか。。

あれはなぜかというと、突然そういう啓示を受けたわけではなくて、潜在意識にそういう願望が強く渦巻いているからです。
「世界を支配したい願望」のようなもの。。
それが表面化しているだけです。

だから、夢で啓示を受けたというのは、おそらく高い確率でウソではない。
ウソではないのですが自作自演です。強い願望により自身が自身を夢に見させる。

凡人がいきなり、啓示を受けて教祖的な動きをするわけですが、そのトリガは自分で生成しているのです。