元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

身の程を知らしめる強制力

「身の程を知る」というのは、凡人が妄想せず自身のレベルを知る、という意味で使われますが、選ばれた人間はすべてを犠牲にして天命の仕事を全うせよ、という意味もあると思います。

という意味での「わきまえる」。

凡人じゃないヒトは、凡人の生活をしてはいけないのです。

ということを書いている自分はカンゼンに凡人側なのですが、「もったいないなあ。。」と思う人間をたくさん、みてきました。

考えてみれば、卓越した才能を持っているのに凡人の生活を望むというのも、我々凡人からみるとオカシなハナシのように思えますが。。

10代のアスリートが、「自分も他のコと同じようにアソビたい!」というのはよくあることです。

僕は、選ばれた人間がそのような言動をとると若干、腹立たしさをおぼえます。
「わきまえ」てないからです。

その繰り返しにより、結局卓越した才能を錆び付かせ、我々と同様の、凡人の域に堕してくる。。(正直、ココロの中でザマミロとつぶやいてみたりします)

でもそれは、「国力」としては非常にもったいない。国が強制力をはたらかせて、才能のある人間を選別しエリートの教育を施したりする必要は、これからますます求められるのでしょう。

それは必ずしもスポーツの分野に限ったことではありません。

この「強制力」ですが、「才能のない人間に諦めさす」という方面にも発揮しなければならないのです。
ここでいう「才能」とは瞬間的なものではありません。「継続」に近いものです。

凡人に「身の程を知らしめる」というのも、何かしらの強制力を持つ他人が行うべきです。