元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

真実はどこにあるか?

コドモの頃僕は、「真実」というものは学校にではなく「ストリート」にあるものだと、信じて疑っていませんでした。
真実が「家」にはないのは言わずもがなです。毎日学校帰りにたまってるトモダチの家にはあったかもしれませんが。。


オトナになり、仕事をするようになり、僕が少し違う観点で考えたのは、真実というのは「現場」にある、ということ。

若い時期の僕にとっての「ストリート」というのは、結局は「学校」と対比する意味での「現場」だったわけです。

そしてオトナになった僕は、「ストリート」ではなく「繁華街」に真実がある(そこが「現場」である)と思うようになりました。ストリートと繁華街は、ロケーションとしては同じなのかもしれませんが。。意味合いが少し違うような気がします。
オトナになれば、さすがに、地べたにぺたっと座ったりはしません。繁華街に蠢く人間模様、みたいなものに、多大なる興味を持つことになります。

そして時は少しずつ流れ、僕が思う「真実」のある場所は、繁華街から「路地裏」へ移行し。。


そして今、あらためて考えてみるに、真実は、ここ東京においては、街にも路地裏にもなく、「工業地帯」にあるような気がしてなりません。

ある時期、ほんの一瞬僕は、真実というのは実はヴァーチャル・リアリティ(つまりはインターネット)の中に存在するのではないか? と考えていました。
でもその考えはすぐなくなりました。やっぱり、仮想現実の中に真実はない。よく考えてみればアタリマエのことです。


仕事に関していえば、「真実」というのは、以前は現場にあると信じて疑っていませんでしたが、今は違います。

仕事、ビジネスにおける「真実」は、現場にはなく、もっと上のほうにある。

つまり、会社であれば経営会議とかそういうところ。意思決定を行う機関、あるいはヒトです。

組織や、ひいてはこの国を動かしている層というのは必ずいて、そこで決められていくことが「真実」であり、自分たちはその層、およびそこに属しているヒトたちに(見事に)踊らされているのだなあ、と。
そんなアタリマエのことに、最近気付きつつあります。

トップダウンではなくボトムアップ」というのは、いつの時代も掛け声だけのようです。


ところで、
もっとも重要な気付きは、「僕の」真実は「家庭」にあるということ。
これはもう、逃れられないことです。

コドモの頃、扶養されている期間はそうは思えませんでしたが、今、自分が家庭を持つと、僕の真実が家庭にあるという事実は、ゼッタイ的です。

これからは、家族で生き抜くというのがトレンドになると、信じて疑っていません。トレンドというよりかは、そうならざるを得ない。核家族化していったら(豊かに)生き延びることができない。家族で団結して、家族みんなで豊かになる姿勢が、望まれると思います。


僕は、そこに真実があるに違いない、とそのときそのときに感じた「場所」に出没し、徘徊してきました。

そこで浪費した膨大な時間は、ある時期はムダだったかなあ、と思いましたが、今は、それが少しずつ血となり肉となっているに違いない、と思えるようになりました。

多くのヒトたちがそうやって、「若気の至り」を通過してゆきますが、僕はいつまでもいつまでも「いやあ若気の至りで」と振り返ることもなく、歳をとっても意識的に「真実」を追っかけてゆくのではないかと思っています。


でも、例外として、仕事においては組織の中枢にはいかないのでしょうね。。